Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-48(219/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.34 無痴(amoha)または慧根(paññindriya)

慧根(paññindriya):パーリ語 paññā は、慧か、または諸々の法(究極法)を如実に知見することを意味する。

ここにおいてそれを「根」と呼ぶのは、諸々の法を如実に知見するに当たって、それは主要な地位を占めるからである。

《阿毘達摩蔵》の中において、慧(paññā)、智(ñāṇa)、無痴(amoha)の三者は同義語である。

観智もた、慧根というこの心所の中に含まれる。

無痴または慧根の特徴は、究極法の自性相を徹底的に知見することか、または正確に透視することであるが、それはちょうど弓矢の射手が、矢で以て、目標を貫くが如くである;

作用は、灯火の如くに、目標を照らす事;

現起(現象)は明確な視察、明晰な観照

まさに仏陀の言う様に:「定のある者は、諸々の法を如実に知見することができる。」

この近因は、特に、観智の原因でもある。

前に述べた様に、この六対の心所は、一切美心と俱生する。

一つひとつの善心、布施、持戒、止禅と観禅の修行において、それらは必要とされる。

それらは善心及び俱生する所の心所と協調して、善法を有効的に実行する。

それらは欲欲、瞋恨、昏沈と睡眠、掉挙と後悔、疑という、この五蓋を対治する。

この六対の心所が存在する時、諸々の蓋は生起することができず、心と心所は、みな、健全に、かつ、より善く、それらの作用を執行することができる。

正見は、この六対が代表する所の一切の善的素質に導く、縁生法である。

阿羅漢道心と果心の中において、それらは円満に到達する。

あなたは、同様の方法を用いて、第二禅、第三禅、第四禅の心路過程の中の名法を識別しなければならない。

ジャーナ法を識別しなければならないだけでなく、あなたは、相、作用、現起(現象)と近因に基づいて、善速行と不善速行の存在する六門心路過程を識別しなければならない。

しかし、我々はこの一回の法話だけで、これら一切を討論しつくすことはできない。

あなたは一人の善くて巧みな導師の下で、学習と修行を実践しなければならない。

次に、私は、《大念処經》について解説する。

12. 5 二種類の身

私はすでに、三種類の身:呼吸身、所生身と名身について解説した。

この三種類の身の中において、呼吸身と所生身は合わせて色身と呼ぶ。このことから、身には二種類あると言える、すなわち、色身と名身である。

それらを、なぜ、身と呼ぶのか?

というのも、それらは、単独では生起することができず、群れを成して生起する必要があるが故に、それらは身と呼ばれる。

この「身」(kāya)という時、それは究極色法の身及び究極名法の身を指すことに注意する事。

12.5.1 内身と外身

あなたはこれらの身を身として観照しなければならない。

しかしながら、内在する自己の身を身として観照するだけでは、涅槃を証悟するには足りず、なお、外にある他人の身を身として観照しなければならない。

何故であるか?

あなたは内在する己自身の身に渇愛し、驕慢になり、邪見を持つだけでなく、外部に存在する他人の身に対しても渇愛し、驕慢になり、邪見を持つからである。

外にある対象に対する渇愛、驕慢、邪見等の煩悩を断じ除く為に、あなたは外部にある身を身として観照しなければならない。

たとえば、あなたは、己自身の子供、夫または妻の成功・成就に対して、一つひとつ驕慢になるかも知れない。

この種の驕慢を断じ除く為に、あなたはそれらを無常として観照しなければならない。

外部に存在する身への渇愛を断じ除く為に、あなたはそれを苦として観照しなければならない。

「私の息子」がいる、「私の夫」がいる、「私の妻」がいるという邪見を断じ除く為に、あなたは、外部に存在する身を、無我として観照しなければならない。

なぜ、外部にある身は、無常・苦・無我であると言うのか?

若し、観智でもって、それらを観照するならば、あなたはただ、究極名色法をのみ、見る事になるであろう。

それらは、生起するやいなや、即刻壊滅するが故に、無常である。

それらは、常に、生・滅の圧迫を受けているが故に、苦である。

それらの中において、あなたをして「私の息子」「私の夫」「私の妻」と言い得る永遠不変の自己がないが故に、それらは無我である。

この様に観照する時、あなたは驕慢、渇愛と邪見という、この三種類の執着を断じ除く事ができる。

故に、仏陀は教えて言う:

「この様に、あなたは内在する身を身として観照する事に安住し、外部に存在する身を身として観照する事に安住する」

しかし、仏陀は続けて言及する:

「または、内在し、外在する所の身を身として観照する事に安住する」

なぜ、仏陀は、もう一言、加えたのか?

その意味は:

初心者にとって、一回の座禅・瞑想だけで、内部にある身を身として観照することだけでは、足りないのである。

何日も、何か月も、多くの時間をかけて観照しなければならない。

彼は、外部にある身を身として観照しなければならないが、これもまた何日もの時間をかけて、観照しなければならない。

この様に観照した後、彼は、一回の座禅・瞑想の内に、内部の身と外部の身とを、交代に観照しなければならない。

一、二回観照するだけでは足りず、繰り返し重複して、多数回観照しなければならない。

唯一、この様に観照して初めて、驕慢、渇愛と邪見などの煩悩を、降伏することができるのである。

12.5.2 四つの段階

観智の順序に従えば、これは、名色分別智(nāmarūpaparicchedañāṇa)に過ぎないのである。

この智慧は四つの段階に分類することができる:

1、色摂受智(rūpapariggahañāṇa):色法を観照する智慧

2、非色摂受智(arūpapariggahañāṇa):名法を観照する智慧

3、色非色摂受智(rūpārūpaparigghañāṇa):色法と名法を同時に観照する智慧

4、名色差別智または名色分別智

(nāmarūpapavavaṭṭhānañāṇa or nāmarūpaparicchedañāṇa):

名色法を分別して識別する智慧

すなわち、名色法の中において、人、我、衆生などは存在しておらず、純粋に名色法があるのみである(+ことを知る智慧)。 

上の事から、この段階において、あなたは下の述べる四つの順序に従って修行しなければならない:

(一)内部と外部の色法の観照

(二)内部と外部の名法の観照

(三)内部においても、外部においても、同時に、名法と色法の二者を観照する。

(四)内部と外部にある名色法の中において、人、我、衆生などは存在していない事を識別する。

これは《大念処経》の中において言及されている所のの観禅の第一段階である。

 (6-49につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemī>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>