Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-56(245/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14.1 苦聖諦

仏陀は続いて開示して言う:

「比丘たちよ。

私が『この苦聖諦は了知されなければならない』と思惟した時ーー

これはいままで聞いたことのない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。

比丘たちよ。

私が『この苦聖諦はすでに了知された』と思惟した時ーー

これはいままで聞いたことのない法であり、私の心中には目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した」

 

こうしたことから、苦諦に関して、仏陀は三種類の智慧を教導している(+ことが分かる):

1、これは苦諦であると、必ず、了知しなければならない。

これを諦智(sacca-ñāṇa)と呼ぶが、その意味はすなわち、真理を了知する智慧の事である。

2、この苦諦は、了知されなければならない事を理解する事。

これを作智(kicca-ñāṇa)と呼ぶが、その意味はすなわち、己自身に、苦諦法を了知する義務がある事を理解しなければならない、という事である。

3、この苦諦は、すでにあなたによって了知されたと知る必要がある。これを已作智(kata-ñāṇa)と呼ぶ。

仏陀本人は、すでに五取蘊は苦諦である事を了知している(+のである)。

14.2  苦集聖諦

次に、仏陀は同様の、三種類の方式で以て、集諦(苦の因)を教える:

「次に、比丘たちよ。

私が『これは苦集聖諦である』と思惟した時ーー

これはいまだ聞いた事のない法であり、私の心中に目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

大悲心の故に、我々の菩薩は、四阿僧祇と十万大劫以上の時間を費やして、生命を惜しむことなく、無量の波羅蜜を累積した。

そうではあっても、彼は、仏陀の生命に対して、軽微な執着があった。

というのも、彼は、成仏した後(=仏陀になった後)、衆生が生死輪廻から解脱するのを、助けることが出来ることを、知っていたからである。

《法趣論》(Dhammasṅganī)の註釈である所の《殊勝義註》(Aṭṭāsālinī)に基づくと、我々の菩薩の最後の一世の果報五蘊を造った業力は、彼の前の一世の臨終の時に熟した慈心観善業力であった;

それは、いまだ慈心禅に到達していない、その前の強くて力のある善法である。その時、彼は仏陀になりたいと発願した;

仏陀仏陀を認定する事(仏陀としての実体を持つ存在がある、それはただ究極名色法の組み合わせにしか過ぎないという認識はない)は、無明である;

その無明のために、彼は仏陀になりたいと発願するのは愛である;

彼が仏陀の生命に執着するのは取である;

強くて力のある慈心観善業は行である;

それら行が残したエネルギー(業力)は業である。

この様に、無明、愛、取、行、業は、五項の過去因(+であることが分かる)。

仏陀は、この五項の過去因は、彼の集諦(苦の因)である事を了知した。

これは諦智である。

あなたが観禅を修習する時、苦の因を了知しなければならない。特に、観智でもって、因果関係を照見する事を通して、縁起法を了知しなければならない。

もし、縁起法を了知しないのであれば、涅槃を証悟することはできない、というのも、集諦は、四聖諦の中の一項であるが故に。

仏陀は引き続き開示して述べる:

「比丘たちよ。

私が『この苦集諦は断じ除かれなければならない』と思惟した時

ーーこれはいままでに聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

無明、愛、取は苦の因であり、観智と道智でもって、それらを断じ除かねばならない。

もし、これらの煩悩を完全に断じ除くことができたならば、あなたの一切の、いまだ熟していない業力は、いかなる果報をも生じることがない。

業力は、唯一、無明、愛、取の支援の下、果報を結ぶのであるが故に;

そし、無明、愛、取の支援がないのであれば、業力は果報を結ぶことができない。

故に、「この苦集諦は、断じ除かれなければならない」というこの言葉は、観智と道智でもって、煩悩を完全に断じ除くことを意味している。

これは作智であり、その意味は、なすべき事柄を了知している所の智慧の事である。

あなたは何をなすべきであるのか?

煩悩を断じ除くべきである。

註釈の解説によると、あなたは煩悩を「殺さ」ねばならない。

これは、煩悩を無余に滅尽するべきである事の説明である。

仏陀はまた引き続き開示して述べる:

「比丘たちよ。

私が『この苦集諦はすでに断じ除かれた』と思惟する時

ーーこれはいまだ聞いたことのない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

これは已作智である。

その意味は、すでに、(+完成させるべき事柄を)完成させたことを了知する智慧を言う。

仏陀は何をすでに完成させたのか?

仏陀は、すでに煩悩を断じ除いたか、または煩悩を殺したのである。

故に、集諦の中においては、諦智、作智と已作智という、三種類の智慧が存在しているのである。

観禅の修行の時、あなたは集諦を了知しなければならない;

これは諦智である。

あなたは、この苦因は断じ除かれるか、または殺されなければならないことを、了知しておかねばならない;

これは作智である。

あなたが涅槃を証悟する時、あなたの道智は、徐々に、徹底的に、煩悩を断じ除く、特に貪愛(集諦)を。

その時、あなたは己自身がすでに集諦法(苦因)を断じ除いたか、または殺したことを明瞭に知るであろう。

(6-57につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>