今日、日課にしている水中運動に行った所、ある方が
「貴女尼僧さんだから、拝むんでしょ?」
と、少し小ばかにした様に、両手を拝むように、擦って見せた。
私は
「えぇぇぇ・・・??
私たちテーラワーダ、南伝仏教の者は、拝んだりしないですけど」と小声でモグモグ、言ってはみたけれど。
水中でスクワットしながら
「色聚(=素粒子)の聚合がどうした、
色法(=クォーク)の刹那生滅がどうした」
等と、仏法の深遠な話をするわけにもいかず・・・。
でも、不思議と腹は立ちませんでした(この方、普段は物腰の柔らかい紳士です)。
縁起ですね。
この方は、仏法の何であるかを知らない。
日本の僧侶方も 《先祖を大事に、朝夕、仏壇の前で手を合わせなさい》 等と教えているのですから、取り立てて積極的に仏教の勉強をしない市民の方々が、仏法について、誤解をしても致し方ない。
すべては、縁起なんだなぁ・・・原因があって、結果がある・・・それ以外の要素は、ない。
すべては縁起・・・この方が私にふざけて見せるのは、彼の心内に鎮座する因と縁によって構成された<概念><思惑>によって選択され表現された所の、態度の一形態であるならば、私が腹を立てる意味がない。
人身受け難し、仏法聞き難し・・・
人として生まれても、
正法を聞くチャンスを持たない人、
聞いても理解できない人、
仏法を誤解している人は
気の毒だ・・・
そう思った一日でした。
(注:<縁起>の本来の意味は、12縁起支のことですが、ここでは簡単に、何事も因と縁によって起こる・・・という意味に使っています)
<緬甸パオ森林寺僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>