Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7-1(258/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅳ 無我相經

(Anattalakkhaṇa Sutta)

この經は、仏陀が成道した後、人間(=人の住む社会)において、開示した二番目の經である。

開示した時間は、仏陀が成道の後、最初の雨安居の五日目、またすなわち、仏陀が《転法輪経》を開示した、その五日後である。

みなさんに理解して欲しい事:

その時、五比丘は、みな、ソータパナになっていた為、ソータパナ道智を通して、四聖諦を徹底的に了知することができた、特に苦諦法ーー五取蘊に関しては。

五取蘊とは何か?

すなわち、色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊及び識取蘊である。

色取蘊とは、執着の目標となり得る過去、現在と未来、内在と外在、粗いと微細、劣等と優秀、遠いと近いの11種類の色法の事である。

同様の道理で、

執着を引き起す目標となり得る11種類の受を受取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の想を想取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の行を行取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の識を識取蘊と言う。

この11種類の五取蘊は、苦諦法である。

五比丘は、観智と道智で以て、徹底的に、それらを了知することができたのである。

また、彼らは、集諦法を了知していた、すなわち、(+ソータパナであれば)縁起を観照して、(+その結果)因果関係を了知していなければならないのであった。

苦諦法と集諦法は、行法(saṅkhāra-dhamma)と呼ばれる。

彼らは、容易に、行法を無常・苦・無我として観照することができた。

まさにそうであるが故に、彼らは《無我相經》を聞き終って後、阿羅漢果を証悟することができたのである。

彼らが、快速に証悟できた、その近因と遠因は、以下の二項の要素を具備していた(+が故である):

彼らはすでに、その一生において、観禅の修行をし、ソータパナ果を証得したが、これが近因である。

過去仏の教化の時代、彼らはかつて、すでに苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として観照して、行捨智の段階に到達していた、これが遠因である。

この二項の要素の支援の下、彼らは快速に阿羅漢果と、四無礙解智とを、同時に証悟することができたのである。

(+上に述べた)これらの事柄は、彼らの証悟の要素と状況である。

我々は、經文を読んでみようと思う:

(この經は)バラナシの付近の鹿野苑で話された。

その時、世尊は、五比丘の以下の様に、話された:

「比丘たちよ。

色は私(=我とも。以下同様)ではない。

比丘たちよ。

色が私であるならば、

色は疾病に遭遇する事がないし、

また人々は、色をコントロールする事ができ、

以下の様に言うであろう:

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』

しかしながら、比丘たちよ。

色は私でないが故に、色は疾病に遭遇し、

人々は色をコントロールすることができない。

(+色をコントロールできるならば、人は言うであろう)

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』と。」

色法のこの種の無我の本質は、「不自在」(avasavattanaka)であり、その意味はすなわち、色法は、個人または自我(=我、おのれ、以下同様に)の願いによって、生起することがない;

それらは、因縁が和合して生起するのであり、因縁が壊滅する事によって壊滅するのである。

次に仏陀は、その他の四蘊に関して、以下の様に教導する:

「受は私ではない。

比丘たちよ。

もし、受が私であるならば、

受は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は受をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『受よ、この様になれ、受よ、あの様になるな』と。

想は私ではない・・・

行は私ではない・・・

識は私ではない。

比丘たちよ。

もし、識が私であるならば、

識は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は識をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と。

しかしながら、比丘たちよ。

識は私でないが故に、識は疾病に遭遇し、

人々は識をコントロールすることができない。

(+人々が識をコントロールすることができるならば)

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と言うであろう。

この様に、五蘊はみな、不自在なのであり、我々のコントロールできるものではない。

これがそれらの無常の本質である。

その後、仏陀は問答の方式でもって、開示したが、これを「記説」(veyyā karaṇa)と言う。

「あなたはどの様に思いますか?

比丘たちよ。

色は常ですか?または無常ですか?」

「無常です、世尊。」

この問答の中において、我々は五比丘がすでに、徹底的に、色法を照見しており、かつ色法は無常である事を了知していることが分かる。

故に、仏陀は彼らに問いて言う

「色は常であるか、または無常であるか?」

彼らは容易に答えることができる、「無常である」と。

その時、彼らは観智を通して、色法の無常の本質を明確に照見していたのである。

もし、いまだ色法の無常の本質を照見していないのであれば、彼らはその様に答えることができない。

故に、もし、あなたがソータパナ果乃至阿羅漢果を証悟したいのであれば、あなたもまた、己自身の身によって、観智でもって、色法の無常の本質を徹底的に、了知しなければならない。

仏陀の教法に基づくと、色法は微粒の形態で生起する。

これらの微粒(+子)を色聚と呼ぶ。

それらは、原子より更に小さい。

あなたは系統的に、四界分別観を修習した時初めて、これらの色聚を見ることができる。

あなたが色聚を照見する時、それらは生起するや否や、即刻壊滅することを発見するであろう。

しかし、この時はまだ、それらを無常として、観照してはならない。

というのも、あなたはいまだ徹底的に、色法の密集を看破できていないが故に。

あなたは各種の色聚を分析し、その中の究極色法を透視しなければならない。

あなたは、一粒一粒の色聚の中には、少なくとも八種類の色法、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、匂い、味と栄養素が、含まれている事を発見するであろう。

ある種の色聚には、九種類の色法が含まれているが、それはすなわち、前に述べた八種類に、命根色(jīvita)を加えたものである。

 ある種の色聚は、10種類の色法を含んでいるが、それはすなわち、前に述べた9種類に、浄色(pasāda-rūpa)または性根色(bhāva-rūpa)、または心所依処色(hadaya-rūpa 心色)などを加えたものである。

唯一、あなたが色聚を分析できる様になった、その後初めて、その中の究極色法を分析することができ、その後でようやく、それらの刹那生・滅を無常として、観照することができる。

その時、あなたは容易に、それらの無常の本質を照見することができるであろう。

色法は、合計28種類ある。

その中の18種類は、真実色法であり、それらは観智の目標となり得る;

残りの10種類は、非真実色法であり、それらは観智の目標(注7)になり得ない。

しかしながら、あなたが色法を観照する時、真実色と非真実色は、みな、観照される必要がある。

というのも、もし、非真実色を観照しないならば、真実色もまた観照することができないからである。

例を挙げて説明すると、たとえば、空間(ākāsa)を照見しないならば、あなたは色聚を照見することができない。

空間は非真実色であり、真実色ではない。その他の非真実色法の状況もまた同様である事は、合理的に類推する事。

仏陀が五比丘に色法は常であるか、無常であるかの問題を問うた時、彼らは明確に、色法を無常であると照見していたが故に、「無常である、世尊。」と答えたのである。

次に、仏陀は問う:

「無常であるならば、それは苦であるか、それとも楽であるか?」

「苦です。世尊」

(注7)「28種の色法」に関しては、「付録」参照の事。

(7-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>