Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7‐2(260/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

彼らは、また、色法は苦であると照見する。

どの様な種の苦であるか?

行苦(saṅkhāra-dukkha)、すなわち、不断に生・滅に圧迫される苦である。

もし、ある物が、不断に生・滅の圧迫を受けるならば、我々はそれを楽である、と言えるであろうか?

不可能である。

五比丘は、容易に、色法の苦の本質を照見できたのである。

仏陀は続けて述べる:

「それが無常、苦であり、変化してやまないものであるならば:

『これは私のもの;

これは私;

これは私の自我(=これは己が探し求める本来の自己、の意)』

と見做すのは、適切であるや否や。」

「当然、不適切です、世尊」

色法は、生起するや否や、即刻壊滅する、故にそれらは無常である;

それらは生・滅の圧迫を受け続けており、故に苦である;

色法の中においては、コントロールできる、または主宰できる所の、一個の、安定した我、私は存在しない、故に無我である。

色法は、無常・苦・無我であるが故に、我々は以下の様に言うことはできない:

「これは私のものである;これは私である;これは私の私である」。

もし、色法の中に、一個の自我(=私、我)が存在するならば、色法は安定的、長期的に存在するはずである。

しかしながら、実際には、色法は生じるや否や、即刻滅する、故に、それらの中において、不変の我、私は無いのである。

これが、なぜ、五比丘が:「当然不適切です、世尊」と答えたのか、と言う答えである。

この回答は、彼らはすでに、色法の無我の本質を照見していることを意味している。

註釈の解釈によると、

「これは私のもの」と執着するのは、愛取(taṇhaggāha)であり;

「これは私である」と執着するのは、慢取(mānaggāha)であり;

「これは私の私である」と執着するのは、我取(attaggāha)である。

色法に対する愛取は、通常、色法は楽しさを齎すであろう、という錯覚から生じている。

あなたが色法が、不断に生・滅の圧迫を受けている、この種の苦の本質を照見する時、あなたは「これは私のものである」などとは言わないであろう。

こうしたことから、もし、あなたが何度も、色法をして「苦、苦、苦」と照見して、相当レベルに到達した時、愛取は消失する。

色法を苦として照見するのを「苦随観」(dukkhānupassanā)といい、それは「愛取」と相互に対立する。

色法の慢取に関しては、通常、驕慢に値する色法があると認めるのは、色法が恒常的な存在であるという錯覚から生じる。

あなたが色法を無常であると照見する時、あなたは「これは私である」と言わなくなるであろう、というのも、それは常に変化しているが故に。

あなたは色法の中において、「私」を見つける事はできない、そうであるが故に、あなたの驕慢は立脚点を失う。そして、あなたは色法の無常を観照する時、慢取は徐々に消失する。

この種の観法は、無常随観(aniccānupassanā)と呼ぶ。

それと「慢取」は相互に対立する。

色法に対する我取は、通常、色法の中において我が存在している、という錯覚から生じている。

あなたが色法を無常と苦であると照見する時、色法をば、恒常不変の我が存在している、などとは言わないであろう。

色法の無常の本質と、苦の本質を照見する事を通して、あなたは色法を無我として照見する。この様にして、我取は徐々に消失する。

この種の観法を無我随観(anattānupassanā)と呼ぶ。

この經の中において、仏陀は先に無常相を解説し、その後に苦相を解説し、最後にようやく無我相を解説した。

これは、無我相は、非常に理解しにくいからである。

その他の經において、ある時は、仏陀は先に無常相を解説し、その後に無我相を解説する;

ある時は、仏陀は先に苦相を解説し、その後に無我相を解説する。

本經においては、先に無常相と苦相を解説した後、ようやく、無我相を解説しているのである。

本經を聴聞した五比丘は、容易に、色法の無常・苦・無我を照見することができた。

經文は続けて以下の様にいう:

「あなたはどの様に思うか?

比丘たちよ。

受は常であるか、または無常であるか?・・・

想は常であるか、無常であるか?・・・

行は常である、無常であるか?・・・

識は常であるか、無常であるか・・・・」

五比丘は、徹底的に、五蘊を照見し、かつ、五蘊を無常・苦・無我として了知した。

ここにおいて、仏陀が彼らを教導した観禅の五蘊法門とは、以下の通りである:

「故に、比丘たちよ。

一切の色、過去のものであろうとも、未来のものであろうとも、または現在のもの、内在のもの、外在のもの、粗いもの、微細なもの、劣等なもの、殊勝なもの、遠いもの、近いものであろうとも、智慧でもってそれらを:

『これは私のものではない;

これは私ではない;

これは私の私ではない』

如実に、その様に見做さねばならない。」

(7-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>