Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7-7(272/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

「沙門ゴータマの弟子は、どの様にして、彼の教えを履行し、彼の勧告に従い、導師の教法の中で懐疑を超越し、困惑を避け離れ、堅信を獲得し、他人に依存しないでいられるのか?」

「ここにおいて、火吠舎よ。

如何なる種類の色においても、過去のであろうとも、未来または現在のもの、内在、外在、粗い、微細、劣等、殊勝、遠い、近いにかかわらず

ーー私の弟子は、みな、正智でもって、以下の様に如実に照見する:

『これは私のではない、これは私ではない、これは私の私ではない。』

如何なる種類の受においても・・・

如何なる種類の想においても・・・

如何なる種類の行においても・・・

如何なる種類の識においても・・・

過去のであろうとも、未来または現在のもの、内在、外在、粗い、微細、劣等、殊勝、遠い、近いにかかわらず

ーー私の弟子は、みな、正智でもって、以下の様に如実に照見する:

『これは私のではない、これは私ではない、これは私の私ではない。』

これが、私の弟子が、私の教えを履行し、私の勧告に従い、私の教法の中で懐疑を超越し、困惑を避け離れ、堅信を獲得し、他人に依存しないでいられる方法である。」

 「大師ゴータマ、比丘は如何にして諸々の漏が已に尽きた、梵行は已に立った、為すべきことは成し終えて、真正なる目標に到達し、存在の足かせを破壊し、完全なる智でもって徹底的に解脱した阿羅漢となり得るのか?」

「ここにおいて、火吠舎よ。

何なる種類の色においても、過去のであろうとも、未来または現在のもの、内在、外在、粗い、微細、劣等、殊勝、遠い、近いにかかわらず

ーー比丘は、みな、正智でもって、以下の様に如実に照見する:

『これは私のではない、これは私ではない、これは私の私ではない。』

如何なる種類の受においても・・・

如何なる種類の想においても・・・

如何なる種類の行においても・・・

如何なる種類の識においても・・・

過去のであろうとも、未来または現在のもの、内在、外在、粗い、微細、劣等、殊勝、遠い、近いにかかわらず

ーー比丘は、みな、正智でもって、以下の様に如実に照見する:

『これは私のではない、これは私ではない、これは私の私ではない。』

これが、比丘が、諸々の漏が已に尽きた、梵行が已に立った、為すべきことは成し終えた、真正なる目標に到達し、存在の足かせを破壊し、完全なる智でもって徹底的に解脱した阿羅漢となり得る方法である。」

 仏陀のこの二つの回答から以下の事が知れる、阿羅漢になるためには、11種類の五蘊観照しなければならないだけでなく、ソータパナになるためにもまた、これを観照しなければならない。

五比丘は、《転法輪経》を聞いた時とその後において、11種類の五蘊を、無常・苦・無我として観照して、結果、ソータパナを誦t下さい。した。

彼らが《無我相經》を聞いた時、再び、11種類の五蘊を無常・苦・無我として観照して、結果、阿羅漢果を証得した。

もし、人が聖者になりたいと思うならば、彼らをば、学習の模範としなければならない。

しかしながら、我々は、《無我相經》の中において、五比丘が縁起法を修行した事に言及していないなどと論争する必要はない。

実際、ソータパナを証悟した後の五日間の間に、彼らは、何度も繰り返し縁起法を修行し、かつ、苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として観照していたのである。

故に、彼らは阿羅漢果を証悟する前に、すでに徹底的に縁起法を明瞭に理解していたのである。

もし、いまだ、観智でもって直接的に縁起法を了知していないのであれば、疑惑(vicikicchā)を超えることはできない。

そうであるならば、ソータパナ果を証悟することはできないし、尚の事、阿羅漢果は無理なことである。

以下の如くの、《因縁相応・・縁經》(Nidāna Saṁyutta、Paccaya Sutta)の中の開示を聞いて欲しい:

「比丘たちよ。

縁起とは何であるか?

生を縁として、老死(が生起する)。

如来が世に出るか出ないかに関わらず、この道理はすでに安立している、これは法住性(dhammaṭṭhitātā)であり、法決定性(dhammaniyāmatā)であり、縁起性(idapaccyatā)である。

如来は、この法を証悟し、現のこの法を観ずるものである。

証悟し、この法を現観した後、(如来は)宣言し、教示し、告知し、設立し、開演し、解説し、この法を明らかにして言う:『見よ!比丘たちよ。

生を縁にして、老死(が生起する)。』

 

有を縁にして、生(が生起する);

取を縁にして、有(が生起する);

愛を縁にして、取(が生起する);

受を縁にして、愛(が生起する);

触を縁にして、受(が生起する);

六処を縁にして、触(が生起する);

名色を縁にして、六処(が生起する);

識を縁にして、名色(が生起する);

行を縁にして、識(が生起する);

無明を縁にして、行(が生起する)。

 

如来が世に出るか出ないかに関わらず、この道理はすでに安立している、これは法住性(dhammaṭṭhitātā)であり、法決定性(dhammaniyāmatā)であり、縁起性(idapaccyatā)である。

如来は、この法を証悟し、現のこの法を観ずるものである。

証悟し、この法を現観した後、(如来は)宣言し、教示し、告知し、設立し、開演し、解説し、この法を明らかにして言う:『見よ!比丘たちよ。

無明を縁にして、行(が生起する)。』

比丘たちよ。

これは真如性であり、不異如性であり、真実不異性であり、縁起性である。

比丘たちよ。

これを縁起と言う。

比丘たちよ。

縁起法とは何であるか?

比丘たちよ。

老死は無常であり、有為であり、縁生であり、尽法であり、衰滅法であり、離貪法であり、滅尽法である;

比丘たちよ。

生は無常であり、有為であり、縁生であり、尽法であり、衰滅法であり、離貪法であり、滅尽法である;

比丘たちよ。

有は無常であり、有為であり、縁生であり、尽法であり、衰滅法であり、離貪法であり、滅尽法である;

比丘たちよ。

取・・・愛・・・受・・・触・・・六処・・・名色・・・識・・・行・・・

比丘たちよ。

無明は無常であり、有為であり、縁生であり、尽法であり、衰滅法であり、離貪法であり、滅尽法である。

比丘たちよ。

これらは縁起法と言う。

比丘たちよ。

聖弟子が正智でもて明晰に、如実にこの縁起及びこれらの縁起法を照見する時、彼は(この様に)過去を遡って(+この様に考える)ことはできない:

『過去において私は存在したであろうか?

過去の私は何であったでろうか?

過去の私はどの様であったであろうか?

過去の私は、元々、何の後で、何になったのであろうか?』

また彼は以下の事を考える事もできない:

『私は未来において存在するであろうか?

私は未来において不存在であろか?

未来において、私は何であろうか?

未来において、私はどうなるあろうか?

未来において、何の後に、何になるであろうか?』

彼は現在に対して、以下の様に内的に惑うこともできない:

『私は存在するか?

私は存在しないか?

私は何であるか?

私はどの様であるか?

(私という)この有情はどこから来たのか?

どこへ去るのか?』

なぜ(これらが不可能なの)であるか?

比丘たちよ。

というのも、聖弟子はすでに、正智でもって明晰に、如実に、縁起と縁起法を観照したが故に。

 もし、縁起を了知しないのであれば、真正なる沙門または阿羅漢になることはできない。

「沙門」(samaṇa)の意味はすなわち、煩悩を止息した聖者である。

「阿羅漢」(brahmaṇa)の意味は二種類ある、すなわち、生婆羅門(jāti-brāhumaṇaママ)と、清浄婆羅門(visuddhi-brāhumaṇa)である。

生婆羅門は、婆羅門の家に生まれたが故に、婆羅門となり;

清浄婆羅門は、煩悩を滅尽し、心において清浄を得て婆羅門になった者である。

阿羅漢を清浄阿羅漢と呼ぶのは、彼らはすでに、阿羅漢道智でもって、煩悩を徹底的に、無余に断じ除いているが故である。

《因縁相応・沙門婆羅門經》(Nidāna Saṁyutta、Samaṇa-Brāhumaṇa Sutta)の中において語られているのは、まさに清浄婆羅門の事である。

その經文は以下の通り:

「比丘たちよ。

 ある種の沙門または婆羅門は、老死、老死の因、老死の滅、老死の滅に到る道を了知しておらず、生・・・有・・・取・・・愛・・・受・・・触・・・六処・・・名色・・・識を了知しておらず、行の因、行の滅、行の滅に到る道を了知していない。

私はかれらを沙門の中の沙門または婆羅門の中の婆羅門とは認めない。

これらの尊者たちは、己自身自ら証悟する所の智慧でもって(縁起を)了知することが出来ないが故に、今生において、沙門の目標または婆羅門の目標を成就できないし、安住することもできない。

しかしながら、比丘たちよ。

ある種の沙門または婆羅門は、老死、老死の因、老死の滅、老死の滅に到る道を了知し、生・・・を了知し、行、行の因、行の滅、行の滅に到る道を了知している。

私は彼らは沙門中の沙門または婆羅門中の婆羅門であると認める。

これらの尊者は、己自身自らの智慧でもって(縁起を)了知し、今生において、沙門の目標または婆羅門の目標を成就し、安住することができる。

上に述べた経文を証拠として、我々は、五比丘は《転法輪経》と《無我相經》を聞いた比丘は、必ずやすでに、正智でもって、如実に、縁起と縁起法を照見している事を知る事ができる。

もし、縁起を了知しておらず、縁起支を無常・苦・無我として観照しないならば、彼らは、ソータパナ果と阿羅漢果を証得できるはずがない。

こうしたことから、11種類の五蘊(苦諦法)と縁起(集諦法)を観照することは、聖果を証得するに欠かす事のできないものである(+ことが分かる。)

これは四聖諦を徹底的に見るための、涅槃を証悟する為の正道である。

禅修行者は常に、完全なる智によって、徹底的解脱して、阿羅漢果を証悟するまで、この事を心に留め、如法に修行しなければならない。

(8-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>