<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《中部》(Majjhima Nīkāya)の中において、《小業分別經》(Cūḷakammavibhaṅga)という名の經がある。
私は、この經に基づいて、業と果に関しての説明をしてみたいと思う。
ある時、世尊は舎衛城のジェータ林給孤独園に留まっていた。
その時婆羅門の学生である須婆都提子が世尊に会いに来て、世尊と相互に挨拶を交わした。
相互に挨拶を交わした後、彼は傍に坐って、世尊に、業と果の多様化に関する14の質問をした。
なぜ、彼はこれらの問題を尋ねたのか?
《中部》の註釈によると、彼の父親都提婆羅門(Brahmin Yodeyya)は、憍薩摩羅国王の国師であった。
都提が在世の時、極めて吝嗇であった為に、死後、己自身の家の犬に生まれ変わった。
仏陀は、この事を須婆に教え、また、その犬に前世人間であった時に、埋めた財宝を掘り上げさせて、それでもって、この犬が須婆の父親が生まれ変わったのであると、証明した。
この件で、須婆は仏陀に対する信心(=確信)を起し、彼は仏陀に会いに行きたいと思い、また業報の作用について、教えを乞いたいと思った。
彼の提出した14の問題に関して、しっかりと聞いて頂きたい;
「大師ゴータマ、何の因と縁で、人類には、高い、低いというレベルの差があるのですか?
人類は:
(一)短命と(二)長寿;
(三)多病と(四)健康;
(五)醜悪と(六)美しい
(七)影響力のない人と(八)影響力のある人;
(九)貧乏と(十)富裕;
(11)出身が低いと(12)出身が高貴;
がある。
大師ゴータマ、人類にこの様な高下があるのは、何が原因なのでしょうか?」
仏陀はまず簡単な方式でもって回答した:
「学生よ、
衆生は彼ら自身が造(ナ)した所の業の所有者であり、業の継承者である;
彼らは業を源として、業に結縛され、業に依存する。
これによって、業が衆生に高下を齎す。」
その時、須婆は以下の様に言って、仏陀に詳細に説明してくれる様に頼んだ:
「大師ゴータマが簡潔に説明して、いまだ詳細には話されていないこの話に関して、私はその詳細な含意を知りません。
もし、大師ゴータマが私のために説法をして、私に大師ゴータマの詳細な含意が分かるようにして頂けるならば、私は非常に嬉しく思います。」
なぜ、仏陀は聞く者が、その話の含意を理解できない様な話し方で話したのか?
それは、婆羅門は通常非常に傲慢であって、彼らは一切の人間の中で、最も智慧があると思っているからである。
もし、仏陀が最初から詳細に解答すると、彼らは、彼らは元々からすでに、仏陀の話す、これらの道理を知っていたのだ、と言うかも知れない。
故に、仏陀は先に、簡単な回答をして、須婆が仏陀に、もっと詳しく話してほしいと頼んで初めて、この問題に逐一、回答したのである。
仏陀の回答に解説を加える前、私は先に、業果の法則について検討してみたいと思う;
こうすれば、我々をして、仏陀の回答に関して、更に深く理解することができる様になるが故に。
業果の法則は、非常に奥深く、凡夫には明確に知れることはない。
それは仏陀の教法の核心である。
真正なる仏教徒になるためには、最も重要なことは、業果の法則を理解しし、深く信じることである;
こうしたことから、我々は、業果の法則に関する説明に、密接な注意を払わねばならない。
仏陀の教導に随えば、一弾指の間に、数百万個意門心路過程が生・滅する。
一つひとつの意門心路過程の中においては、七個の速行心(javana)が存在している。
業とはすなわち、速行心刹那の内において形成される。
速行心刹那の中の思を特に業と呼ぶ。
しかし《発趣論》(Paṭṭhāna)の業縁の章では以下の様に言う:
速行刹那の中の名法のエネルギー(業力)もまた業と言う、と。
この事を覚えておいて頂きたい。