Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-6(297/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

業のもう一つ別の四種類の分類方法は以下の通りである:

重業(garuka-khamma)、

慣習業(āciṇṇa-kmma)、

近業(āsanna-kmma)、

已作業(katattā-kamma)。

「重業」(garuka-kamma)は、非常に人に譴責される、非常に非常に不利な不善業、及び非常に強くてかつ利益のある善業の事を言う。

重業は非常に強い業であり、必ずや次の生の結生を生じるものであって、他のどの様な業もそれを止めることができない。同時に幾つかの重業が熟する時、最も重い業が優先的に熟し、生まれ変わりを齎す。

不善なる重業は以下のものを含む:

1、母親殺し;

2、父親殺し;

3、阿羅漢を殺す;

4、悪意をもって、生きている仏陀の身体の血を流させる;

5、和合しているサンガを分裂させる;

6、断固として、因果を否定する決定的邪見(niyata-nicchia-diṭṭhi)を、臨終の時になっても捨てない。

 

上に述べたこれらの業の中で、前の五種類(すなわち、五逆罪)は、一度だけでも実行すれば、即刻重業になる;

六番目(の決定邪見)は、臨終の時まで堅持して、捨棄しない時、初めて重業となる。

この種の邪見で、よく言及されるものに、以下の様な三種類がある:

1、無作用見(akiriyadiṭṭhi):善業と不善業が作用を生じることを否定する。

2、無因見(ahetukadiṭṭhi):果報に原因がある事を否定する。

3、空無見(natthikadiṭṭhi):因が果報を生じることを否定する。

これらの決定邪見の業力は、かくの如くに重大であり、それらは人をして地獄において、一大劫またはそれよりも更に長く苦を受けさせしめることになる。この種の業力が消費し尽くされない限り、大劫の末期に世界が破壊されることになって、欲界の衆生がみな梵天界に生まれかわった時において、ちょうど地獄にいて、苦を受けているこれら、邪見の苦報の者は、依然として、地獄の苦から逃れることができない。

その時、彼は、その他の悪道の衆生の様に、人間(+界)、または天界に生まれて、禅定の修行に精進することもなく、他方世界の地獄において、引き続き苦を受けるのである。

しかしながら、もし、人が、臨終の前に、この類の邪見を捨棄するならば、彼の邪見業は、重業とはならず、それほど重大な苦報を齎すこともない。

シャーリプトラ尊者の外甥長爪梵志(Dīghanakha paribbājaka)は、一つの例である:

彼は元々断見に執着していた;

しかし仏陀と話合った後、断見を捨てた。

これは、なぜ、彼が《長爪經》(Dīghanakha Sutta)を聞いた後に、ソータパナ果を得ることができたのか、という原因の一である。

善の重業は、臨終の時にも定力が落ちない八定についてのものである。

それらは広大業(mahaggata-kamma)である。

しかしながら、若し、定力を臨終のときまで維持できないのであるならば、それらの八定は、重業であるとは言えない。

「慣習業」(āciṇṇa-kamma)は、常に、習慣的に、重複して成す業である。

もし、臨終の時に慣習業と非慣習業が、みな熟せんとする時、慣習業が優先的に熟することになる;

もし、幾つかの慣習業が熟せんとするならば、最も慣習的な業が、最も優先的に熟して、次の一世の生まれ変わりを齎す;

その慣習が善であるか、不善であるかは、無関係である。

如法居士(Dhammika)は一つの例である:

彼は一生の内に持続的に布施をした。

彼は臨終の時にこの種の善業が熟し、彼は諸々の天神がきらきら光る天界の馬車で迎えに来たのを見たのである。

「近業」(āsanna-kamma)は、臨終の時に、非常に明晰に思い出すことのできた、過去に造(ナ)した業または臨終の時に造(ナ)した業を言う。

一人の人間が臨終のときに明晰に、過去のある一種の業を思いだす時、その業の業力は、彼の次の一世の生まれ変わりを齎す。

波斯匿王の皇后末利迦(Queen Mallikā)は、この明らかな例である。

彼女は敬虔な仏教徒ではあったが、彼女は臨終の時にその一生において造(ナ)した間違った行動を思い出して、その業によって、彼女は地獄に生まれ変わることになった。ただし、善業の縁によって、彼女が地獄において苦を受けたのは短時間であり、その後、天界に生まれ変わったのではあるが。

過去のおいて造(ナ)したが、しかし前の三種類に含まれない業を「已作業」(katattā-kamma)と言う。

前の三種類の業が熟さない場合、「已作業」が次の一世の生まれ変わりを齎すことになる。

(10-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>