<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
回答二
「しかしながら、学生よ。
ここに男性または女性がいて、殺生を捨棄し、殺生を禁絶し、こん棒または武器を放擲し、心は温和で仁慈であり、一種類の衆生において慈悲に安住する。
この様な行為の履行と従事によって、身体が壊滅して命終わる時、善趣乃至天界に生まれ変わる。
しかしながら、もし、身体が壊滅し、命終わる時、もし、彼が天界に生まれなくても、人間に生まれ変わる、その時、彼がどこに生まれようとも、彼は長寿である。
学生よ。
これが長寿に導く道であり、それはすなわち、殺生を捨棄し、殺生を禁絶し、こん棒と武器を放擲し、心が温和で仁慈であり、一切の衆生において慈悲に安住するのである。」
この様な状況の下、不殺生の善業は、直接、天界に生まれ変わるか、または人界に生まれ変わっても長寿でいられる様になる。
また、もし、一人の人が、不殺生以外に、その他の善業、たとえば、布施、止観または観禅の修行などを累積するならば、不殺生の戒行の基礎の上に、その他の善業は更に殊勝になり、かつ、直接、人界における長寿の果報を齎すことができる。
同様の法則は、以下のすべての、善業の熟成に関する経文に適用される。
この善業に関して、摩訶迦葉尊者、阿難尊者と、両家尊者(Ven. Bākula)は、みな、典型的な例である。
摩訶迦葉尊者と阿難尊者は、みな120歳まで生きて般涅槃した。
両家尊者は160歳まで生きて、ようやく般涅槃したのである。
もう一つ別の例は、持五戒尊者である(Ven. Pañcasīla Samādāniya):
彼は勝蓮華仏の時代に五戒を保持して、10万年の長きに亘って、まったく違反しなかった。
我々のゴータマ仏の時代、彼は阿羅漢果を証得する時、同時に四無礙解智も証得した。
故に、我々は以下の事を理解する事ができる:
勝蓮華仏の時代から以降、彼は過去仏の教化の時代に、止禅と観禅を修行して、必ずや、行捨智(saṅkhārarūpekkhañāṇa)の段階まで、到達しておかねばならない。
彼は戒を重視していたが、、持戒をのみしていたのではなく、強くて力のある禅定と観智を育成したのである。
これが、彼が戒行清浄を瑕疵なく保持できた理由である。
臨終の時、彼は己自身の清浄なる戒行を思惟して、心中は、愉悦と歓喜で一杯になった。
死後、天界に生まれ変わったが、善業の果報によって、彼は一個の天界から、また別の天界へと移って行ったり、天界から人界へ、人界から天界へと移って行ったり、この様に輾転として、生まれ変わった。
毎回の一世において、彼は良好な性格を具し、楽しい生活を享受し、また高くて深い学識を具備した。
毎回の一世において、彼はこの三項目において、一般の人々より優れていたのである。
現代の人々は、みなこの三項目の成果を得たいと願っている。
強くて力のある禅定と観智の支援の下、戒行は、この三項目の成果を齎すことができる。
故に、みなは、仏陀の教法の中において、この戒・定・慧の三学を学ぶことに、奮闘し精進しなければならない。
持五戒尊者は、我々の仏陀の教法の中において、阿羅漢果と四無礙解智を証得したが、これは清浄なる心は衆生を清浄にすることができるということを顕しているのである。
引き続き、第三の回答を聞いて下さい:
(10-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
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経て、