Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-18(318/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

回答八

 私は一つの例を挙げたいと思う、優楼頻螺迦葉(Ven. Uruvela Kassapa)が、非常によい例である:

勝蓮華仏の時代、彼は一人の在家居士であった。

ある日、彼は勝蓮華物が獅子音比丘(Sīhaghosa)を、従者の中の一番の大弟子であると宣言したのを見て、彼は非常に歓喜し、かつ、己自身もまた未来仏の教化の時代に同様の栄誉を得たいものだと考え、発願した。

この心願を実現する為に、彼は多くの善業を積み重ねた。

この例でいうと、彼は獅子音比丘が獲得した供養、名誉、重視、礼拝、尊敬などに対して、嫉妬せず、憤慨せず、嫉妬の心を抱かず、その成就を随喜した;

彼は全身に、喜悦と楽しさが充満した。この種の態度は彼に非常に大きな利益を齎し、彼をして益々高等なる生命を獲得せしめたのである。

縁起法から言えば、もし、彼が比丘がただ究極名色法の組み合わせに過ぎないことを了知しているならば、彼の了知は正確であり、正見である、と言える;

というのも、究極諦の角度から見れば、究極名色法のみが存在しており、真実の比丘とか、比丘尼などは存在しないのである。

彼は、究極名色法をば、従者第一の比丘であると思い成したが、これは彼の「無明」である;

この無明に基づいて、彼は己自身が、未来仏の教化の時代にその様に比丘になりたいと発願したが、この種の、生命に対する渇望は「愛」である。

彼はあの様な比丘の生命に執着したが、これは「取」である;

実際は、不断に重複して強く変化した愛が、取である。

彼はあの様な比丘の生命に不断に渇望した。

この項の願望を達成するために、彼は多くの善業を積み重ねたが、これらの善業は、彼の行である;

彼は持戒清浄であり、仏陀とサンガへ布施をし、資具の供養し、止禅を修行し、かつ観禅の修行は、行捨智の段階まで到達した。

これらの善業は、無常であり、生じるや否や即刻滅し去るが、しかし、それらが、彼の名色相続流の中に、潜在的な業力を残すことになった。

こうしたことから、合計五種類の過去因あることが分かる、すなわち、ち、無明、愛、取、行及び業である。

後に、彼は馬興達(Mahinda)の子として生まれ、弗沙仏(Phussa Buddha)の異母弟となった。

彼と、もう二人別の兄弟は、辺境の動乱を平定したために、国王は褒賞として、彼らに、仏陀と10万人の比丘を供養する権利を与えた。

彼らは三人の大臣を派遣して、仏陀とサンガのすべての需要に応えた;

彼ら自身は、10戒を受持し、仏陀に親しみ、仏法を聴聞し、時間があれば、止禅と観禅の修行をした。

過去の、あの三人の大臣は、我々の仏陀の時代にはそれぞれ:

頻毘婆羅王(King Bimbisāra)、毘舎佉居士(Visākha)、及び護国尊者(Ven. Raṭṭhapāla)である。

この三人の兄弟は、天界と人界の間を流転して、最後の一生において、彼らは族姓を迦葉という一個の婆羅門の家庭に生まれた。

彼らは三部のウェーダを学んだ。

その後三兄弟は出家して隠士になった。

彼ら結髪の三兄弟(Tebhatika Jatila)の内、長男優楼頻羅迦葉(Uruvela Kassapa)と500人の弟子は、優楼頻羅の尼連禅河(Nerañjara)の川べりにいた;

その河の少し下流に次男の那提迦葉(Nadī Kassapa)と300人の弟子が住んでいた;

そのまた下流に、三男の伽耶迦葉(Gayā Kassapa)と200人の弟子が住んでいた。

仏陀は仙人堕処(Isipatana)で、最初の雨安居を過ごした後、優楼頻螺(ママ、以下同様)迦葉に会いに行った。

優楼頻螺迦葉は、仏陀に、我々が聖火を供奉する屋舎の中には毒龍(=毒蛇)が住んでいる、と警告したが、しかし、仏陀は依然としてそこに住むことにした。

仏陀は、前後して、神通力によって、一匹は煙を吐き、一匹は火を吹く、二匹の毒龍を降伏したため、優楼頻螺迦葉は仏陀の神通に、いたく敬服し、毎日仏陀に食事を供養することを申し出た。

仏陀は、その付近の樹林の中に三か月ほど住み、何度も神通を顕現し、優楼頻螺迦葉の心が軟化して、仏陀の説法を聞く気持ちになる様にした。

最後に仏陀は、優楼頻螺迦葉は阿羅漢ではないこと、彼が依拠している修行方法では彼に阿羅漢果を証得せしめることができない事を遠慮なく突く事によって、優楼頻螺迦葉の目を覚まさせようと決意した。

その時、優楼頻螺迦葉は初めて、敗けを認めて、出家をしたいと願い出た。

仏陀は、この決定を彼の弟子たちに告げて、彼らに己自身の未来の方向を決める様にと言った。

彼の弟子たちは、すでに仏陀に傾向していたため、みな共に剃髪して出家し、螺髪とホーマー(=火供)に用いる道具を、河の中に捨てた。

那提迦葉と伽耶迦葉は、上流からホーマーの道具が流れてきたのをみて、何が起きたのかと聞きに来た。

情況を理解した後、彼らもまた、仏陀に従って出家した。

仏陀象頭山(Gayāsīsa)において、彼らのために《燃焼經》(Aditta Sutta)を開示した所

ーー《六処相經》(Saḷāyatana Saṁyutta)参照ーー

彼ら全員、阿羅漢果を証得したのである。

仏陀と優楼頻螺迦葉及びその弟子たちは象頭山を離れて、王舎城に来た。

優楼頻螺迦葉は、頻毘婆羅王及び会に集まった人民大衆の前で、己自身は、仏陀に帰依した、と公開で宣言した。

彼が優楼頻螺迦葉と呼ばれるのは、一つには、その他の、迦葉姓の者と区別するためで、もう一つの理由は、彼が優楼頻螺で出家したからである。

彼らには、元々1000人の弟子がいたが、彼らが仏陀に従って出家した後もなお、優楼頻螺迦葉の傍にいた。

一人ひとりの弟子は、また多くの人々を剃髪得度させたため、彼らの一団が、比丘の人数が最も多いのであった。

阿難尊者の戒師ーーベラッタ獅子(Belaṭṭasīsa)は、優楼頻螺迦葉の弟子であった者である。

優楼頻螺迦葉が仏陀に帰依した時、彼もまた仏陀に帰依したのである。

後に、仏陀は比丘、大衆の前において、優楼頻螺迦葉は、従者の中で、第一の大弟子である、と宣言した。

これがなぜ、仏陀が以下の様にいうのか、という理由である:

「業が衆生をして、その高下を分ける」

次に九番目の答えを聞いて頂きたい:

(10-19につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>