<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
身見とその他の一切の煩悩を徹底的に断じ除く道
我々はすでに、如何にして11種類の五取蘊を観照するのか、という事を研究した;
11種類の五取蘊とはすなわち、苦諦である。
我々はまた、如何に縁起を観照するのかを研究した;
縁起とは集諦である。
苦諦法と集諦法は、行法であり、観禅の目標(所縁)である。
それらは、空無常、空無楽、空無我である。
もし、それらを空と観照したいと思うならば、それらを交互に、繰り返し無常・苦・無我として観照しなければならない。
私は仏陀が莫伽羅闍(Mogharāja)に回答した話を引用して、更に一歩進んで上に述べた事柄を確認したいと思う;
莫伽羅闍は、跋婆梨(Bāvarī)が仏陀に親しむ様派遣した、16人の弟子の内の一人である。跋婆梨は、以前、波斯匿王の国師であったが、彼は年老いたので、己自身、自ら仏陀に親しむことができない為、弟子を派遣して、仏陀について学習させたのである。
莫伽羅闍は、仏陀に以下の様な質問をした:
五取蘊世間をどの様に見做して初めて、死亡から離脱することができるのでしょうか?
仏陀は答えて言う:
Suññato lokaṁ avekkhasu、
Mogharāja sadā sato。
Attānudiṭ@im ūhacca、
evaṁ maccutaro siya。
Evaṁ lokaṁ avakkhantaṁ、
maccurājā na passati。
その意味はすなわち:
「莫伽羅闍よ。
11種類の五取蘊の世間は、空無常、空無楽、空無我と見做さなければならない。
常に、この様な正念を保たねばならない。
もし、この様に、五取蘊世間を観照することができるならば、我見を捨棄することを通して、死亡の魔手から脱離することができる。
死亡の神は、世間をこの様に見做す人を見ることができない。」
これが仏陀の回答である。
こうしたことから、禅修行者は行法の三相を観照する時、それを空無常、空無楽、空無我として観照するべきである。そうすれば、彼の観智は向上し、かつ徐々にではあるが、行法への畏怖と、好ましさを捨棄する事ができる。
彼の行法に対する態度は、冷淡になり中立的になり、それらを「私」「私のもの」「自我(=本来の私)と見做すことはなくなり、それは、妻と離婚した男子の態度が、冷淡になるのと同じである。
たとえば、一人の男性が、一人の美しく、可愛く、人を迷わす妻をめとったとして、彼は深く妻を愛し、乃至は、一刻も彼女から離れたくないと思う。
この様に、彼は己自身の妻が、他の男性の傍に立っているのを見たり、談話したり、冗談を言ったりしているのを見たりしたならば、彼は怒り、不愉快で、心が不安になるに違いない。
しかし、後になって、妻に多くの欠点があることを発見し、彼は妻を益々嫌いになり、妻から離れ様とする。
最後に、彼は妻と離婚し、二度と妻を「私の」とは思わない。
この時から始まって、以前の妻の、どの様な振る舞いであっても、彼は二度と怒らないし、不愉快にならないし、心が不安になることもなく、冷淡で中立的でいられる。
同様に、禅修行者は繰り返し何度も行法の無常・苦・無我の三相を観照した後、一切の行法を捨離したくなる、というのも、彼は行法の中において、何等「私」「私のもの」「自我(=本来の私)」というものはない、という事が知れたためである。
彼は行法に対する畏怖と好ましさを捨離し、行法に対する態度は、冷淡で中立的なものとなる。
彼がこの様に知見する時、彼の心は三有(欲有、色有、無色有)から退縮、退却して、もはや、外に向かって三有を執取することがない。
彼の心中に中捨または厭離が建立される。
ちょうど、少しばかり傾斜している蓮の葉の上の水滴は、退縮し、退却し、外に向かって分布することがないのと同じである。;
同様に、禅修行者の心は、三有から退縮し、撤退し、退却する。
まさに、家禽の羽毛または筋腱の破片を、火の中に放り込むと、退縮し、撤退し、退却して外に向かって広がらない様に;
同様に、禅修行者の心は三有から退縮し、撤退し、退却する。
彼の心の中において中捨または厭離が建立される。
この様に、彼には行捨智が生起する。
もし、彼の観智が、涅槃(永恒の安楽)を寂静として知見する時、この智慧は、二度と、一切の行法の生起に注意を払うことなく、ただ、涅槃に投入するのみとなる。
しかしながら、もし、彼の観智がいまさ涅槃を見ないならば、ただひたすら、行法をば目標として、引き続き、持続的にその三相を観照する。
この様に不断に観照して、五根が熟した時、彼の観智は、涅槃に投入することができる。
四種類すべての聖道は、みな涅槃を知見する。
一番目の聖道智(Sotāpatti-maggaañāṇa)は、徹底的に、無余に、身見と懐疑を滅し除く。
二番目の聖道智(sakadāgāmi-maggañāṇa)は、貪欲と瞋恚怨恨の力を弱くする。
三番目の聖道智(anāgāmi-maggañāṇa)は、徹底的、無余に、瞋恚怨恨と欲界の貪欲を断じ除く。
第四番目の聖道智(arahatta-maggañāṇa)は、徹底的に、無余に、色界と無色界の一切の執着、昏沈と睡眠、驕慢、掉挙と無明を滅し除く。
もしソータパナ聖者になりたいならば、行法を空無常、空無楽、空無我として観照しなければならない。
もし、サカダーガーミ聖者、アナーガーミ聖者、阿羅漢聖者になりたいのであれば、同じく、これらを観照しなければならない。
もし、禅修行者が、一歩一歩、四種類の聖道智でもって涅槃を知見することができたならば、彼は、我見を捨棄することを通して、必ずや死の魔手から脱離することができる。
死の神は、世間をこの様に見做す人間を見ることができない。
これが、身見とその他の一切の煩悩を、徹底的に、断じ除く道である。
一日も早く、仏法を悟らんことを願って!
一日も早く、諸漏の断じ除かれんことを願って!
一日も早く、涅槃を証得されんことを願って!
(11-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
跋婆梨
莫伽羅闍