パオ・サヤドーは著書の中で「人に神秘体験を語ってはいけない」と言います。
その理由は、たとえその神秘体験が嘘ではなく、実際にあったとしても、聞いている人が「そんな事は有り得ない」と否定した場合、否定した側の不善業になるから、というものです。
私も、子供の時から幾つかの神秘体験をしているのですが、文盲で台湾語しか話せない祖母や父に相談する訳にもいかず(私の初歩的な台湾語では、それほど深い話ができない)、神秘体験については、どの様な位置づけをすればよいのか、心理的に棚上げ状態になっていました(注)
そんな中で、タイのアーチャン・チャーのお弟子さんと懇意になり、その方が住職を務める森林僧院に、修行に行く様になりました。
タイ語は「ニーアライ?」(これは何ですか?)しかできませんでしたが、いよいよ困ったなら、中華街に行けばなんとかなる、と強気に出ました・・・というより何より、仏法の真髄を学ぶためにはどうしてもタイに行かねば、という使命感の様なものに押されて、後先考えずにカンチャナブリの森林僧院に向かったのです。
35歳の頃でした。
そこでまず最初に聞いたのは
「輪廻は本当にあるのか?」
答えは
「修行すれば分かる事を、他人に聞いてはいけません」
これより以降、これまで一人で抱えて来た、神秘体験を含む、諸々の疑問を解明する為に、毎年一度は僧院を尋ねて、こまごまとした疑問を質問していきました。
そうやって15年ほど経った頃、住職さんに、少し不満を感じる様になりました。
一年に一度外国からやってくる在家の女性に、それほど深いダンマは教えない・・・私の安般念は深まらないし、深まったとしても、そこから先の修行の道筋が見えてこないのです。
ありていに言えば、毎年、カンチャナブリの僧院で、住職さんとお会いする度に
「安般念は、上手くいっていますか?」
「心は安らいでいますか?」
とは聞かれても、無常・苦・無我を知るための止禅と観禅に進むためには、何をどうしたらよいのか、という指導はないまま、15年が過ぎてしまった、という感じです。
そして、15年目の夏、私は台湾でパオ・サヤドーの著書『智慧之光』(中国語版)に出会う事になりました。
その衝撃といったら・・・。
(注)私の、仏教への探求の姿勢とその成果は、長い間、実家の家族にも親友にも、夫にも子供達にも、誰にも話しませんでした。
仏教が迷信ではなく、一生学び、一生修行するに値する、人を幸せにする教えかどうか、軽々に語れるものではない、と思ったからです。
私が仏教について発言する様になったのは、パオ・メソッドに基づいて修行すれば、無常・苦・無我を観ずることができる、すなわち、素粒子と心(心所)の生・滅は、慧眼で見る事ができる、という仏陀の教えの真髄を確信するに至って以降です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>