Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

みやもとそうご様のコメントへの回答―2

また、みやもとそうご様には、

サヤレーの言う事が正しければ、色聚(=素粒子)を観じない限りは、

[vipassanā をしている]

とは言えなくなるが、それは真であるか?という質問を頂きました(注1)。

みやもと様は、パオセヤドーの著書(『智慧の光』)の巻末に掲載されている図表

THE DIAGRAM SHOWING THE WAY TO PRACTICE

(=パオ禅林における安般念または四界分別観入門修行行程図表)をご覧になった事がありますでしょうか?

(WEB<菩提樹文庫>に載っていると思います)。

クムダ・セヤドーのご説明では、

その図の中の、

色業処、名業処、縁起の修行は、純粋な vipassanā ではなく、サマタとvipassanā の混ざったもの、

vipassanā は、その上の段階の 16種類の修行のみ、当てはまる、との事です(安般念等の、40の業処は、完全なサマタで、vipassanā の要素は、全くない)

このことは、私が直接、クムダセヤドーから、お聞きしました。

勿論、修行論において、定義は定義として(例外も多々ありますから)、あまりうるさく言わず、修行自体がどんどん進めば、それでよい、という面もある事を、私も否定しません(私自身、アビダンマの定義をひけらかす、口うるさいばぁさんになりたい訳ではありません~笑)、

ただ、

「私は先ほどまで、機嫌が良かったが、今は不機嫌である」とかの心理現象への観察や

「右足あげた」とかの身体状況への確認作業を、

vipassanā であると思ってしまうと、色聚の無常・苦・無我を観じる、すなわち、本来の vipassanā 

・・・本来のvipassanā とは、厳密に言えば、色法(=色聚の刹那生・滅=色聚の無常・苦・無我)と心法(の無常・苦・無我)を観じる事です・・・

がイメージできない事が壁となって、修行がある段階で止まってしまうのではないかと危惧致しまして、あえて(炎上覚悟で?笑)、パオ・メソッドの肝の部分を、繰り返し説明させて頂いている次第です。

私は、経典とアビダンマを読み比べて、その関係性についての、子細な研究をした事がありませんので、的確な説明をするのは困難ですが、ある年の、雨安居における合宿瞑想会の時の、Aセヤドー の法話を再現したものを下に紹介しますので、ご参考下さい。

『「大念処經」には、

<前に行くときは前に行くと知って>と書かれているが、これを文字通りに受け取って、その様な修行を、vipassanā の修行だと思っているなら、なんだか不思議ではないですか?

一歳のあかちゃんでも、自分が今、ビスケットを食べているのか、お母さんのおっぱいを飲んでいるのかぐらいの区別はついているでしょう?

<前に行くときは前に行くと知って・・・>って、大の大人が、改めて、そんな修行をするものなのでしょうか?

<前に行くときは前に行くと知って・・・>は、自分の身体を構成する色聚の移動を明確に観じている事、否、色聚の刹那生・滅、すなわち、色法(=色聚の刹那生・滅=色聚の無常・苦・無我)を観じながら、前に向かって歩いている、という事が出来て、初めて、vipassanā を実践している、と言えるのです。』

『ゴータマ仏陀の教えは、経典を読んだだけでは理解できません。アビダンマも読まねばなりませんが、まだ、それだけでは足りません。

先の善知識の方々が残した註釈書、復註釈書、復々註釈書も、研究しなければなりません。

経典を読んだだけで、分かった気になるのが一番危険なのです』

あの夏の日、Aセヤドーは法話の中で、

{歩くとき、食事をとる最中、起きている限り、行住座臥の内において、己自身の色法を観じる修行法}

も教えて下さいました(一日中、あらゆる姿勢においても、nimittaの光を保持する事、これが眼目です)。

ゴータマ仏陀に、隠し拳はありません。

(なお、私の浅学菲才の為、ダンマの説明に関して、言葉不足、言い回しが適切でない場合が有ります時は、凡夫故の弱点として、ご寛恕頂きます様、お願い致します)。

注1=実際には、色聚を観じている時は、<サマタとvipassanā の混ざったレベル>で、<色法(=色聚の無常・苦・無我)を観じて初めて純粋な vipassanā になる> のですが、初心者が混乱しない様に、上の様に説明しておきます。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>