最後に、みやもと様は
経典とアビダンマの関係性について、質問されています。
私は仏教経典学者ではありませんので、的確なお返事はできませんが、以前、緬甸の方(その当時は在家、現在はパオで出家して、比丘)から聞いたお話をご紹介します。
『2600年前、ゴータマ仏陀ご在世の時、当時のインド人は非常に賢明であった為、パーリ経典に書かれている様な簡単な説明、対機説法でも、仏陀が何を言いたいかを、即座に理解する事ができました。
しかし、時代がくだると、経典に書かれてある事が何であるか、即座に理解できる人が、いなくなりました。
それで、現代では、註釈書、復註釈書、復々註釈書を読まなければ、経典に書かれている所の、ゴータマ仏陀の説法の真意を理解できない、という状況になっています。
「ここに蛇が一匹いる」
といえば、蛇の全身、蛇の習性、蛇の一生を思い浮かべ、仏陀が何を言いたいか、すぐに分かったのです。
現代人は、<蛇>と言われれば、写真を見て、実物を見て、表を見て、裏を見て、解剖して、そうしてやっと蛇への知見を得るのです。
現代人は、パーリ経典を読んだだけでは、仏陀の真意を理解出来ない、と謙虚に認めるべきです。
経典、アビダンマ、註釈書などを学びつつ、修行しなければなりません。』
経典と註釈書との関係性は、上の通りです。
アビダンマは、経典が、対機説法を記録した体裁の為に、法話に脈絡がない事があるため、仏陀の法話の真髄を抽出し、整理したもの、という風に理解されています。
また、アビダンマは、仏陀が、先に亡くなった母(マーヤ夫人)の為に、天界に行って説いたもので、その内容が余りに難しいため(天人ならすぐに理解できる)、後に、シャーリープトラが、人類が聞いて分かる内容にして、人々に説いたものだ、と言われています。
これを神話と見做すか、事実とみなすか・・・皆様それぞれに。