Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~老人とうつ

般若精舎のあるここ九州も、8月の、あの酷暑が何であったのか?と思うくらい、急に涼しくなりました。

秋の夜長・・・一人暮らしの老人には、余りよいものではない様です。

私も、昨夜は、心がネガティブになって、ちょっと鬱々としました・・・

「今は、水中運動をしたり、老人向け体操教室に行ったりして、元気百倍だけれども、これから先、一人で生きていく体力、気力がなくなったらどうしよう」

とか

「オハナはいつまで傍にいれくるだろうか?

無邪気に笑うこの子がいなくなったら、どれほど寂しいだろうか?」

「二人の息子は、一人は外国、一人は他県、それぞれの生活があって、頼る訳にはいかないし・・・」

等と、急に心細くなりました。

そういう時、私は安般念(出入息の観察、アーナーパーナーサティ)をします。

テクニックとしては、いきなり息をみるのではなくて、まずは、自分のその時の感情、悲しい、寂しい、怒っている、とかをよく味わう様にします。

その時、自己批判や自己嫌悪に陥ることなく、ただ感情を味わうだけ、にするのですが、ただし、感情を直接味わうのは難しいので、感情が齎す身体感覚を味わう様にします・・・この時、自己批判をしない、自己嫌悪に堕ちないのがミソです・・・前向きに反省する以外の、自己批判や自己嫌悪は無限ループで、無意味ですから。

感情が引き起す身体感覚をよく味わった後、これらの感情を横において、安般念に入ります(感情の焔に薪をくべない)。

近行定(浅い、深いはともかくとして)に入ったら、それをなるべく保ちつつ、安止定に進めれば尚よいのですけれど(余ほどの禅巧者以外、初禅~4禅を確保する安止定は難しいので)、近行定のレベルのまま、なるべく長くその意識を保つか(=息が光るのを認知しながら、心を鼻の外の

<人中>においたまま、出入息を観察しつづけるか、または、心と、息の光とを、合一させつつ観察をつづける)、または、そのまま眠ってしまっても、よしとしますー注1

この様にすれば、翌朝、目が覚めた時は、昨夜の憂鬱は、きれいさっぱり拭い去られて、気持ち良く、朝日を迎えることができます。

母が私を産んだ後に、気持ちが鬱々として、離婚して彼女の母国である台湾に帰ってしまったのは《産後鬱》だったのではないか、と今の私は思っています(70年前では、産後鬱とか老人鬱とかの概念がなく、治療法もなかったのでしょう)。

今は、思春期鬱、壮年期鬱、産後鬱、老人鬱に関する、身・心の相関関係の研究がなされていて、治療環境は以前よりよいかと思いますが、薬に頼りたくない人は、ご自身で安般念を実践してみれば、鬱的な感情からの脱出に、いささか役に立つと思います(うつ病が、すでに深刻な状態で、安般念が逆効果になる人がいます。こういう人は、医師の指示に従って下さい。)

注1=心は、人中におきますが、その時の心は、皮膚上より少し、浮かして下さい。息または皮膚の熱い、冷たいを観察すると、四界分別観になってしまいます。安般念と四界分別観の混合は、禅病の元です。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>