Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~無我について

我々凡夫は、無常はともかくとして、<無我>(注1)を実感するのは、なかなかに難しいと思います。

インドの聖者ラマナ・マハリシは、青年の時に臨死体験をして、こちらの世界に意識が戻った後は山に籠り、彼を慕って訪ねて来る人々に一貫して

「人は死ぬという事がない。死ぬ<人>というのはいない」と教えました。

(彼はヒンズー教の[真我説]とは少し距離を置いた様です。この辺り、興味のある方は研究してみて下さい。)。

ゴエンカ式瞑想で有名なゴエンカ氏(遷化)は

「無我を悟るのは大変に難しいので、先に、無常を知る修行をしましょう」

と言っています。

テーラワーダでは

「歩く行為はあっても、歩く<人>はいない」

と言いますが、己の中で<無我>のテーゼが腹落ちするには、止瞑想を完成させて後、止(サマタ)の集中力を頼りに、観(vipassanā)瞑想に取り組むのがよいと思います(急がば回れで、基礎からコツコツ積み上げるのが、吉・・・マハリシの様に、修行する事なく、特異な体験から即無我を悟るのは、宗教的天才であって、稀有の存在)。

タイの聖者アーチャン・チャー(遷化)が言う

「手放す生き方」すなわち、

一瞬生起した(悪)思考や(悪)感情を、次の瞬間に手放す事が出来たならば、あなたは楽しく生きる事ができる、と言っているのですが、これは、無常と無我の関係性に着眼した所の、日常生活での心理的応用なのだと思います。

一瞬一瞬に生起する意識(思考)と感情の中には、妄想であったり、悪業を縁として生起するものが多くありますので、それらを[私のモノではない](生起はするが無我である)と知って、即、手放す事ができたなら、心は相当に、安楽になると思われます。

我々人類(と有情全般)の本質とは、身体という <箱モノ> にあるのではなく、ただ一瞬一瞬の条件によって合成され、成立している <コト>の連鎖の流れ(行=サンカーラ)に過ぎないのであって、(その事実を実感する事を通して)心が常に落ち着いて、穏やかに、楽しくあれば、凡夫であっても [八風吹不動] の不動心を得る事が出来る、と思います。

注1=台湾や中華圏の大乗の仏教書を読んでいますと、無我は <無我空> <無我空縁起>という風に表記されている事が多いです。これは、[無我=空=縁起]という事を意味しています。<無我>を理解するのが難しいと思うご仁は、<空>または<縁起>から切り込んでみるのもアリかと思います。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>