《清浄之道》では、上記の事柄は、禅相とは、「想」によって生じるものであるから、と説明する(Vm.231)。
禅相の異なる事は「想」が原因である。
しかし、「想」は、単独で生じるわけではなく、それは、名法の一種として、それぞれ個別の心識を随伴しながら、その他の名法と共に生起する。それぞれ個別の心識に相応するこれらの名法は、相応心所(cetasika)<注92>と呼ばれる。
例えば、一人の禅修行者が、楽しい心でもって、入出息禅相に専注するならば、その心所は、ただ一つの「想」ではなく、合計33個になるが、それは、すなわち、触、思、一境性、作意、尋、伺、勝解、精進、欲などであるーー「想」が異なるだけでなく、その他のすべての心所もまた異なるのである。