[用你的”心”来聴聞仏法、
而不是用你的耳朶。(阿姜査)]
仏法は、あなたの心でもって聞きなさい、
仏法は、あなたの耳で聞くものではないのです。
(『何来阿姜査』 (アチャン・チャーはどこから?)P 32)
仏法は”心”で聞くべし・・・
最近、つくづく、その様に思います。
私は、緬甸のパオ森林僧院で出家して、単身日本に戻り、今は九州の田舎に住むサヤレー(尼僧)で、その風貌(頭が丸坊主)から、時々、近隣の知人、友人に、仏法について聞かれることがあります。
でも、多くの人は、私の話す仏法を、”心” で聞かず、耳で聞き、そして、すぐに反論して来ます。
私は、私の個人的な意見を言うよりも、己自身の修行の実体験か、アビダンマに基づいてお話するのですが、多くの人は、私の話を聞いておらず、ただただ、ご自分の知見を開陳したい、反論したい・・・
この気持ち、私も、分からないでもありません、他人の言う事を唯々諾々と聞いていると、自分が失われていく様に思い、恐怖心まで生まれますものね。
でも、仏法(経典)、特にアビダンマは ”心” で聞いた方がよいです。
というのも、アビダンマは、ゴータマ仏陀が修行を通して得た真理、身・心に関する科学ですから(瞑想体験に基づいた智見を、<科学>と言い切れるかどうか、定義によりますが、アビダンマは、少なくとも <科学的> ではあります)。
仏法、アビダンマを聞くとき、その場では、黙って聞いて、聞いたことを、後で熟慮して欲しいです(質問はよいです。反論はよくない・・・質問と反論の違いが分からない人もいます)
熟慮の結果が、賛成でも反対でも、半信半疑であっても、よいのです。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>