”Anujānāmi、bhikkhave、
sāmaṇerānaṃ dasa sikkhāpadāni、
tesu ca sāmaṇerehi sikkhituṃ.
pāṇātipatā veramaṇī
adinnādānā veramaṇī
abrahmacariyā veramaṇī
musāvādā veramaṇī つづく ”
”Anujānāmi、bhikkhave、
sāmaṇerānaṃ dasa sikkhāpadāni、
tesu ca sāmaṇerehi sikkhituṃ.
pāṇātipatā veramaṇī
adinnādānā veramaṇī
abrahmacariyā veramaṇī
musāvādā veramaṇī つづく ”
《律之瓔珞疏(Vinayālaṅkāra-ṭīkā)》は以下の様に言う:
”Sukka vissaṭṭhi ādi lokavajja sikkhāpadesu ca
sāmaṇerahi vattitabbaṃ”
”故意に、出精(注0)するなどの、世間的罪学処においては、サーマネラもまた、これを実行しなければならない。”
これに基づけば、サーマネラもまた、故意に出精などをする比丘(を罰する所)の僧始終(注1)学処を、順守しなければならない(という事になる)。
サーマネラがこれらに違反する時、罪を構成する事はないが、しかし、懲罰はされなければならない。
注0=精は、精液の事。
注1=僧始終:桑客地謝沙、また訳して”僧残”。
パーリ語 saṅghādisesa。
この類の学処に違反した比丘の、その罪の処理の過程の始まりから終わりまで、完全に、僧団(サンガ)によって執行され必要がある。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>
先日、注文してあった<充電式電動草刈り機>が、宅配便で届きました。
さっそく、取説を見ながら組み立てます。
一人暮らしをして11年。
色々な器械、道具を一人で組み立てる様になって、何度も失敗しながら、最近、ようやく、少々、こつが分かってきました。
取説を無視して、手順を飛ばと、また一からやり直しになる事が多いので、箱の中の、本体、部品がそろっている事を確認したら、ゆっくり、落ち着いて組み立てます。
特に、草刈り機は危険な道具ですから、一歩一歩、丁寧に組み立てて行きます。
組み立てが完了しました。
所定の位置に充電パックをはめ込み、安全スイッチを押し、次に駆動スイッチを押すと、グワーと、草刈り用刃が回ります。OKです。
今朝、これを使って、庭の雑草を刈ってみました。
同梱の、金属でできた円盤式の刃は、ちょっと恐いので、添付の(工業用)プラスチック製のブレードの方を装着します。
勢いよく育った雑草は、いきなり根本から切ろうとせず、まず、頭の部分を切ります。
その後、胴体か、または根本を狙って・・・なにしろプラスチック製の刃ですから、一気に切ろうと欲を出すとかえって切れない・・・急がば回れ・・・です。
一雨降るごとに、雑草は遠慮なくどんどん大きくなります。
梅雨の合間に、自分の好きな時間に、ちょこちょこっと雑草を刈り取る・・・
これならできそうです。
本日、《実用アビダンマ》(7-18)を翻訳していまして、以下の事を思いました。
日本語で、<慙愧>(例えば慙愧に堪えない等)と一言で言われてる語彙は、本来は、<慙>と<愧>の二つに分かれる語彙で、意味もそれぞれ異なります。
同じく、仏教徒であれば知らない人のいない、
<慈悲>という言葉も、実は、<慈>と<悲>の二つに分かれた語彙なのです。
慙は、悪行をなすことに嫌悪感を感じる事。
愧は、悪行の結果齎されるであろう悪果に恐れを感じる事。
二者、微妙に違います。
慈は、己自身と他者が、幸せである様にと願い、行動する事(祈りも含む)。
悲は、己自身と他者の、困難を取り払ってあげたいと願う心の事。またその様に実践する事・・・
己自身が幸せでなければ、他者に慈・悲の心を向ける事ができないので、己自身の幸福も非常に大事、という事になります。
これら四つの仏教用語は、別々に説明された方が、自分はどれが出来ていて、どれが出来ていないかが、より明瞭になると思います。
何年か前、自称 <パオ森林僧院出身比丘> (注1)という輩がいて、慙も愧もなく、慈と悲もなく、多くの智者、法友を怒り悲しませました。
現在の彼は、仏教サンガに潜り込んだ 【賊住者】です。
彼は、アビダンマの解説が得意の様ですが、《アビダンマ読みのアビダンマ知らず》としか、言い様がありません(その浅薄な行為は <論語読みの論語知らず> より、害が甚大であるのは、皆様ご存じの通り)
慙と愧、慈と悲。
当ブログの読者の皆さまにおきましては、四つの語彙をそれぞれ分けて理解されて、日常生活の中において、活用されます様にと祈願しております。
注1=正確には、<パオ・セヤドーにパオ森林僧院日本道場の設立を委託されて帰国した者>(後に取り下げ)を宣揚し、出身母体サンガ、経歴は一転二転しており、明確ではない。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>
故に、仏陀は「慙と愧」は世間的な護法である、と言う。この二者がなければ、世間は混乱の向かってしまう。
人類は、慙愧があるが故に、狼や犬の様に、性的な関係性の紊乱を齎す事がない。
ただ、今日の世情下、時代が変化している中において、我々出家者が、仏法を宣揚する任務を携えて(活動するのは)、世間を護るためである。
みなが因果を理解して、悪行に対して恐れを感じるならば、それは回避される事になる。
結果、我々は無形の内に、世界の平和を維持、保護し、人々に幸福を齎している。
持戒者は他人を傷つけないだけでなく、他者に安全をも提供する。
故に、持戒(の実践は)非常に重要である。
人として、父母とそて、あなたの子供に、戒律を護る様に諭しなさい。
己自身の幸福に思いを致す事は、すなわち、他人に安全を提供する事でもあり、それは最終的には、国家の為、社会の為、世界の為、平和な環境を作りだす事ができるのである。
(7-19につづく)
<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>
仏陀は、慙と愧は、世間的な(一般的な世の中の)護法である、という。
仏陀は《増支経・行為経》の中において以下の様に言う:
「比丘たちよ。二種類の法があって、それが世間を保護している。
どの様な二種類であるか?
慙と愧である。
比丘たちよ。
もし、この二種類の法が無く、それでもって、世間を保護することができないのであれば、それはすなわち、これは母親、母親の姉妹、叔父の妻子、師長及び師長の妻であることが分からないという事であり、その為に、世間は混乱する。
それはちょうど、羊、鶏、豚、犬、狼と同じ様である。
慙と愧がないのであるならば、父と娘の逆倫、兄と妹の逆倫などの類の事柄が生じる。
(7-18につづく)
<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>