スメダ隠士は、『燃灯仏』と聞くやいなや、全身に鳥肌が立った、何と嬉しいことよ!そして、自分も、燃灯仏を歓迎する所の、善業に参加したいと思った。村人は、彼に泥の道を掃除する様にと、言いつけた。彼には神通力があったので、村全体を綺麗にするのは、簡単ではあったものの、しかし、彼は、喜んで、自分自身の手を使って道の清掃を、行った。というのも、5分間の労力は、5分間の善業を積む事が、できるが故に。神通力を使って、パッと変えてしまうなら、それは速すぎて、善業を積む時間がないのであるから。文責:Pannyaーadhikaサヤレー。(緬甸パオ森林僧院ヤンゴン分院所属/般若精舎)
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(7ー42)(私家版)
ある日、彼が五神通を使って空を飛んでいたとき、下界のある村が何やら騒がしいのに気がついて、下に降りてみた。村人が言う:『燃灯仏が世に出たのです。もうすぐ我々の村に来ます。彼を歓迎するために、我々は、村のどこかしこも、奇麗にしなければなりません。』 文責:Pannyaーadhikaサヤレー。(緬甸パオ森林僧院ヤンゴン分院所属/般若精舎)
翻訳(中→日)<実用アビダルマ>(7ー41)(私家版)
スメダ(Sumedha)は、ゴータマの前世である。彼は、あらゆる苦難に苦しむ有情の、拠り所がないのをみて、悲心を起こし、阿羅漢道を証悟出来る(所のチャンスを)放棄して、菩薩道へと進んだ。彼は四大阿僧祇刧と十万大刧の以前、ヒマラヤに住んでいて、大部分の時間、禅定の喜悦に浸っていた。
翻訳(中→日)<実用アビダルマ>(7ー40)(私家版)
この様に慰めても、彼はどうしても辛い心が、拭えない。あなたも一緒になって心が辛くなり、涙が溢れる。 このとき、始まりは悲の心であったものが、涙をあふれさすころには瞋の心に変わる。 すべての、憂具はみな瞋であり、故に、悲の心と、瞋の心は、区別されなければならない。我々は、他人の苦痛を取り除きたいと望み、手を差し伸べるとき、それができないのであれは、捨が、必要になってくる。他人と共に、瞋の心を起こして、共に苦痛を背負うことは、あってはならない。悲の作用は、他人の苦痛を見ることに耐えられないこと、現起(現象)は、残忍でないこと。近因は、如理作意。文責:Pannyaーadhikaサヤレー。(緬甸パオ森林僧院ヤンゴン分院所属/般若精舎)
翻訳(中→日)<実用アビダルマ>(7ー39)(私家版)
悲の特徴は、他人の苦痛を取り払ってやりたい、という欲望である。例えば、友人の子供が、事故に遭って死亡したとする。彼は非常に辛くて、あなたの所へ来て、悲しみを訴える。あなたは、悲心が生じて、彼の苦痛を取り払ってやりたい、と思い、彼に対して、仏法を解説した。<これは子供自身の業なのです。彼は呼ばれなくてもやって来て、お願いせずとも、去って行った。彼の破壊業が熟したのが原因なのですから、あなたは悲しまなくてもよいのです>。(緬甸パオ森林僧院ヤンゴン分院所属Pannyaーadhika サヤレー/般若精舎)
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(7ー37)(私家版)
3.正断離:出世間道心と相応する遠離。この種の離は、完全に悪をなす(心の)傾向を根絶やしにする。というのも、道心は、已に煩悩を断じており、故に、もはや悪語、悪業、悪命などの煩悩を再起させる事はないが故に。文責:Pannyaーadhikaサヤレー(緬甸パオ森林僧院ヤンゴン分院所属/般若精舎)