Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-10-15から1日間の記事一覧

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-116

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 喜が消失: この二種類の意味を理解する必要がある; すなわち (一)尋と伺が止息した; (二)尋と伺が止息し、喜も超越した。 当然、第二禅の中において、尋と伺は、止息される。 しかしながら、このように言…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-115

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10 第三禅 このようにジャーナを証得したならば、あなたは、第二禅の五自在を、練習しなければならない。 あなたが、第二禅の五自在に習熟して、次に、第三禅の修行に進みたいと思うならば、あなたは、第二禅の…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-114

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 両支の捨離: 両支の捨離とは、尋と伺の捨離である事を、知っておかねばならない。 五蓋は、初禅の近行定において、すでに捨離されてはいるが、このジャーナ(第二禅)に関して言えば、尋と伺は、その近行定にお…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-113

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 無尋無伺: 修習を通して、捨離をした為に、このジャーナには、尋がない。この種の解釈は、伺にも適用する事ができる。 《分別論》も、以下のように言う: 「故に、この尋と、この伺は、すでに平静にされ、平静に…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-112

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-9-1 尋と伺の止息(=止むこと) ここにおいて「尋と伺の止息」とは、この両者を超越したその後にしか、第二禅に入れない事、を意味している。 自信:この言葉の意味は、信じる事、と同じである。ジャーナは、…