Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-10-01から1ヶ月間の記事一覧

「身念処」1-20

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-2 智階 仏陀は、三つの段階を経て、四聖諦を体験・証悟した。 彼を教え導く人がいなかった為、彼は、己自身に頼って、この三つの智階を、体得した。 1.諦智 第一番目の智階であって、諦智と言う。 彼は以下の…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-116

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 喜が消失: この二種類の意味を理解する必要がある; すなわち (一)尋と伺が止息した; (二)尋と伺が止息し、喜も超越した。 当然、第二禅の中において、尋と伺は、止息される。 しかしながら、このように言…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-115

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10 第三禅 このようにジャーナを証得したならば、あなたは、第二禅の五自在を、練習しなければならない。 あなたが、第二禅の五自在に習熟して、次に、第三禅の修行に進みたいと思うならば、あなたは、第二禅の…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-114

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 両支の捨離: 両支の捨離とは、尋と伺の捨離である事を、知っておかねばならない。 五蓋は、初禅の近行定において、すでに捨離されてはいるが、このジャーナ(第二禅)に関して言えば、尋と伺は、その近行定にお…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-113

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 無尋無伺: 修習を通して、捨離をした為に、このジャーナには、尋がない。この種の解釈は、伺にも適用する事ができる。 《分別論》も、以下のように言う: 「故に、この尋と、この伺は、すでに平静にされ、平静に…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-112

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-9-1 尋と伺の止息(=止むこと) ここにおいて「尋と伺の止息」とは、この両者を超越したその後にしか、第二禅に入れない事、を意味している。 自信:この言葉の意味は、信じる事、と同じである。ジャーナは、…

「身念処」1-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 涅槃は、心ではない。 それは、心の所縁である。 実相般若が非常に強い時、心は、凡から聖へと、転換する事ができる。 この種の転換を、道刹那と呼ぶ。 道刹那の後ろには、道果が続く。 両者は皆、涅槃を所縁とす…

「身念処」1-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これらは、非常によい質問である。 というのも、仏教徒は皆、苦を滅したいと考えており、苦を滅したければ、涅槃を証得しなければならないからである。 我々は、手短に、これらの疑問に対して、答えたいと思う。 …

是誰庵のひとやすみ~Simple is best 続き

昨日のブログ<是誰庵のひとやすみ~尼僧認定>では、 <Simple is best>で終わりましたが、実は<Simple is happy>とも言えます。 まず基本は、今、ある種の問題が目の前にあるとして、それをそれ以上、複雑にしてはいけない、という事です。 問題の本質…

「身念処」1-17

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 禅定の修行は、仏陀の(+生まれる)前から、存在していた。 仏陀は、最高の(第八次第)禅定を成就するまで、禅定の修習をした。 しかし、彼はこの種の定は、潜在的な煩悩を断じ除く事ができないことに気が付い…

「身念処」1-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 戒・定・慧が合わさって、八聖道になる。 では、戒・定・慧とは、何であるか? 我々は、先に持戒が清浄のレベルになって後に初めて、定と慧を体験・証悟する事ができるのであろうか? 八聖道の中の戒・定・慧は、…

是誰庵のひとやすみ~尼僧認定

私は、Y盆地にある、某温泉施設の<歩くプール>で、水中運動するのが日課です(歩くプールは、持病の浮腫に、とても効きます)。 ここは、<歩くプール>の他、内風呂も露天風呂も付属しているので、自庵でお風呂を沸かさなくて済み、とても助かっています…

「身念処」1-15

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 彼が教えたのは、八聖道の中の戒・定・慧(認知・認識を明らかにする事)である。 なぜ、八聖道の中の戒・定・慧である、と言うのか? というのも、八聖道の中の戒・定・慧は、中道法であり、中道は、四聖諦を成…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-111

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 初禅から出て来て後、あなたが、正念と正知でもって、禅支を観察する時、尋と伺は、粗くて劣っているように思えるし、喜、楽及び一境性は、寂静であると、思える。 粗くて劣っている禅支を取り除いて、寂静なる禅…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-110

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-9 第二禅 色々な経典に書かれている所の、第二禅に関する描写は、以下の通り: 「尋と伺を止息させた後、比丘は自信と定心の伴った、無尋と無伺の、定によって生じた所の、喜と楽が充満した、第二禅に入る。」…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-109

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あなたが完全に、心の中のそれらの、定の障礙になる所の不善法を、清らかにした後、再度入禅するならば、あなたはその日一日中、ジャーナに安住することができるであろう。 それはちょうど、蜜蜂が、完全に清浄な…

「身念処」1-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> a)の例では、経典には、怒ってはいけない、と書いてある。仏陀は、我々に、瞋恚と恨みを止めるように、教えている。 仏陀は言う:「己自身の心を傷つけてはいけない」。 というのも、瞋恚や恨みは、己自身を傷つ…

「身念処」1-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これが、真正なる仏法である。 シッダッタ王子は、己自身の努力によって、この智慧ーーすなわち、四聖諦を発見した。 誰もそれを、彼に教える者はいなかった為、彼は「大阿羅漢ーー無上正等正覚」(「悟不由他的…

「身念処」1-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> b)涅槃もまた実相であるが、しかし、五蘊に属さないーーまた「世間」にも属さない。 仏陀は言う:衆生にとって、「世間」とはすなわち、五蘊の事である。というのも、我々は全員、五蘊を通して、一つひとつの事…

「身念処」1-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 五蘊または心・身は、苦(苦諦)である。(「sacca」とは「真諦」の意。故に「dukkha-sacca」は苦諦ーー第一聖諦である)。 五蘊は真正なる苦諦で、苦因の果であるが、苦の因は渇愛で、それは第二聖諦の如くに、…

「身念処」1-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> a)一人ひとりは、四法の中の三法(心王ーー心所ーー色法)を具足している。または、この四法を、心と身体(名と色)に要約する事ができる。 または、それらを五つの細かい部分、五蘊:色、受、想、行、識に分け…

是誰庵のひとやすみ~仏教は無神論か?

仏教は、神の存在を否定しています・・・故に仏教は <無神論>であると、よく言われます。 私は子供の頃、これを真に受けて、仏教は神の存在を否定しているから、キリスト教より科学的で、真理に近いのだと思っていましたが、しかし、経典(吉祥経)に、「…

「身念処」1-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1‐1‐1‐2 討論 仏法は、以下の二つの方面に、定義することができる: 1)自然界の真実の状態。 2)仏陀の教法。 1)自然界の真実の状態 仏陀は言う「Sabbha dhamma anatta」。 この意味はすなわち、「一切の法…

「身念処」1-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> そこで、我々が最初に決めた、仏法に対する定義は、これら実相(心王ーー心所ーー色法と涅槃)こそが仏法・・・真正の仏法である、と言える。 世界の、一個(+または一人)の有情は、この色・心二法の定義に合致…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-108

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あなたが相を観察する事を通して、再度、これらの方式を掌握したなら、あなたは成功里に、安止に到達する事ができるが、しかし、それを永く維持する事ができない。 それは、(+心が)禅定を障礙する所の諸蓋の中…

「身念処」1-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏法が、前三法(心王ーー心所ーー色法)を立てる目的は、「あなた」は実際には、多くの部分(迅速に生・滅する心と、迅速に生・滅する色身)によって、構成されている事を、証明する為である。 というのも、どの…

「身念処」1-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 故に我々は、最終的に、仏法の実相の定義を、心身と覚悟(=覚醒、以下覚醒)ーーまたはパーリ語で言う所の、心王ーー心所ーー色法と涅槃とする事ができる。 仏法について言えば、この四法は、皆実相である。その…

「身念処」1-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hot> しかし、心態(心王)だけを語るなら、それはまだ、足りない。 心態(心王)は、実際は52個の心所法によって構成されている(たとえば:触、受、想等は皆心所法である)ので、故に、心の真正なる定義は「心王ーー…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-107

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ちょうど一人の巧みな料理人が、自分の雇い主に奉仕するかの如くに・・・。 彼は注意深く、雇い主が食す所の、一切の食物を選択し、(+ひとたび選択したならば)それ以降は、その食品だけを送ってくるようにする…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-106

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-8-9 如何にしてジャーナを維持するのか? かくの如くにジャーナを証得したならば、禅修行者は、毛髪を射る者、または料理人のように、その方式を観察して、それを証得しなければならない。 ある一人の射手が、…