Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「身念処」1-68

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> Vipassana修法 1)真実の自性は般若(智慧)。 2)修行の所縁は実相(実相または身・心); 四念処修行の中の四組の念処を所縁とする事を通して、実相般若を引発する。 3)Vipassana の特徴は、実相の智慧を顕…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-122

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10-2 正念と正知 ここでは、自性に基づいて、正念と正知についての解説をする。 正念の特徴は、目標を憶念する事、覚えておく事であり、それは例えば、安般念の似相のようなものである。 その作用は、目標を見…

是誰庵のひとやすみ~起心動念

<マハーカルナー法友会>の解散事件からこのかた、心が少々ザワザワします。 そろそろ修行に戻りましょうか。 みなさん法話を聞く場所がなくなっても、座禅・瞑想する場所がなくなっても、修行はできます。 己の五蘊が法であり、己の身・心が、修行の場なの…

「身念処」1-67

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-9 サマタと vipassana 修法の違い 二種類の修行方法があり、それはサマタとvipassana 修法である。 サマタ修法 1)真実の自性は定で、平静な心の状態を生じる(+ことができる。) 2)修行の所縁は仮法(伝統…

テーラワーダ比丘のパーラージカについて

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:尊者にお訊ねします。比丘尊者には戒規(=戒の決まり)は幾つありますか? 答:比丘の波提木叉(pātimokkha)は227条あります。 それは: 他勝(pārājika、打ち負かされる)、 僧初余(saṅghādisena、僧初残…

テーラワーダ比丘の女性への態度について

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:尊者、なぜ、テーラワーダの比丘尊者は、見た感じ非常に厳粛で、ご自分から我々に挨拶しないし、我々を見送ったりもしないのでしょうか? 答:テーラワーダの比丘は、仏陀の教えを実践する為に、厳粛で、真剣…

テーラワーダ比丘の戒律ーお金とカードの取り扱いについて

ブログの読者の方から「テーラワーダの比丘は、カードで買い物をしていいのですか?」という質問を頂きました。 私はテーラワーダの女性出家者で、sayalayという身分で日本で庵を結び、戒律は、8戒を受けています(パオ本山にいた時は、10戒)。 通常、出家…

★マハーカルナー禅師へ質問状送付しました

去る11月2日に発生しました<マハーカルナー法友会> 解散事件で困惑されている皆様へ。 私自身は、この度<マハーカルナー法友会(以下、M会)>が解散理由としているマハーカルナー禅師(以下禅師)のパーラージカ(疑惑)について、真相を知らない部外者で…

是誰庵のひとやすみ~台湾僧侶の予言

もう40年程前でしょうか。 私が仕事(中国語通訳)で台湾に滞在した折、台北の本屋さんで『阿含正見』という本を見つけました。 著者は釈従信、比丘です(大乗のお寺を出て、ご自分の精舎をお持ち、とのことでした)。 この本を読んで感動した私は、従信師に…

是誰庵のひとやすみ~修行の場

11月2日に<マハーカルナー法友会>が解散されてから、巷では色々な噂が飛び交っているようです。 噂は噂、自分の毎日の修行は、コツコツと続けましょう。 今回の事件で、修行の場を失った(とお思いの)方。 私が2015年6月26日から翻訳を始めて、このブログ…

是誰庵のひとやすみ~身一つで

私たちは、仏法を学び、実践するのに、何が必要でしょうか? タイや緬甸(ミャンマー)の僧侶の像などを見ると、ゴータマ仏陀が着用されたのとほぼ同じと思われる黄衣を着て、肩から托鉢用の鉢を掛け、手には傘を持っています。 傘は、野宿する時に、広げて…

★<マハーカルナー禅師への質問状>について(最終版)

マハーカルナー禅師には、当ブログにて、 <パオ僧院日本道場の説明責任>2016年12月20日付、 <マハーカルナー禅師への質問状>2017年11月9日付 の、二種類の質問状を公開・提出していますが、11月16日現在、双方とも、回答を頂いておりません。 勿論、お返…

是誰庵のひとやすみ~法施は楽しい

私の楽しみは、仏教書を翻訳して、ブログで公開する事。 英語は苦手ですが、中国語は得意ですので、中国語の仏教書(大乗のでなくて、テーラワーダのもの)を日本語に翻訳するのが、私の楽しみ、私の日課。 今手元にある本、パオ・セヤドーの著作は、何冊も…

是誰庵の一休み~先に悟り後で学んだアチャン・ネン

ここ最近、毎日アチャン・ネンの著書「身念処」の翻訳をしておりますが、「アチャン・ネンってどんな人?」と お思いの方も、いらっしゃるでしよう。 少しだけご紹介します(p221より抜粋)。 父親の名は、パヤスッタヤ・ヌンクン。タイ西部、カンチャナブリ…

「身念処」1-66

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-8‐1 善悪と無記 Kusalaの定義は、一種の「善」または「熟練」の状態を言う。 Akusaraは、不善または不熟練。 Abyakata(無記)は、非善非悪:中間的、中立的または中性的(色身、涅槃と異熟心は、無記の具体例…

「身念処」1‐65

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできな…

テーラワーダの出家と在家の関係

私はテーラワーダ仏教を学んで35年になります。 最初にタイのスナンタ・ワラナムで修行し、その後にパオに行き、出家しました(現時点で、ミャンマーの女性出家である<サヤレー>という身分で日本に住んでいます)。 タイで学んだのは15年間、パオは、20年…

カルマ論について

カルマは、日本語では業(ごう)といいます。 その意味は、人間一人ひとりの心には、ある種の癖があり、その癖がその人の行動に、ある種の方向性を持たせ、その行動の方向性によって、人生が、幸せにも不幸せにもなる、という考えです。 これは仏教でも言わ…

テーラワーダ出家者の純潔

テーラワーダの出家者は、戒律に関して、一点の曇りもなく、修行生活を送らなければなりません。 通常、テーラワーダの出家者、特に比丘は、細心の注意を払って生活しています。 自分を訪ねて僧院に来た女性と話をする時、それが妻(別居に相当)であっても…

パオ森林僧院の現状

11月2日よりこのかた、日本(主に東京)では、パオ森林僧院を最後の修行地として帰国された、マハーカルナー禅師の重大戒律違反問題(11月15日現在、真偽不明)で、揺れています。 ただ、揺れていると言っても、日本全体からみれば、 <コップの中の嵐>であ…

「身念処」1-64

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三番目――潜在的な煩悩(漏): これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。 唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。 もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一…

是誰庵のひとやすみ~心を読む

最近、何やら、騒がしい。 パーラージカとか何とか、東京の風が、こんな九州の片田舎にまで、吹いてくる。 韓国の法頂和尚(遷化)は、世間を嫌って、どんどん山奥に逃げていく内に、本当に山のどんづまりまで来てしまい、小さな杣小屋に一人住み、川の水で…

「身念処」1-63

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 煩悩と智慧は、心に命令して、身体にしてもらいたいと思っている事柄を、身体に要求させる事ができる。 煩悩が「我々は散歩に行こう」と言う時、楽しみを探しに行く、という訳である。 智慧は、座る姿勢が痛い時…

「身念処」1-62

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-8 不善根:悪行の根源(無明煩悩) 三個の不善根がある: 貪、瞋(=怒り)、痴(=無知)。 愛(好き)は、一種の貪であり、憎(好きでない)は、一種の瞋、怒りである。 愛と憎は、同時に発生する事はない。…

「身念処」1-61

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> d)Yonisomanasikara または「如理作意(yoniso)」の意味はすなわち、「個人の注意力を、ある事柄に集中させ、正しい理解をもって、それの因を知る事。」である。 これもまた、ある事柄の実相である。 (1-6-1節…

「身念処」1-60

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-7 精進ー正念ー正知、如理作意と観察力 定義: a)Atapi の意味はすなわち、「精進」。 b)Sati の意味はすなわち、「正念」。 二種類の正念がある(すべての正念は、善法であるが、日常生活における「注意力の…

「身念処」1-59

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:<今・ここ>を観照する三心と、<今・ここ>を把握する三心は、同じものですか? 答:双方共<今・ここ>という呼び名ですが、しかし、<今・ここ>を観照する三心(思慧)と、<今・ここ>を把握する三心(…

是誰庵のひとやすみ~仏に会っては

心が清らかなでなければ、超能力(神通力)を擁する事はできない。 しかし、超能力を擁するからと言って、その人の心が清いとは限らない。 心が清らかでなければ、禅定に入る事はできない。 しかし、禅定に入れるからと言って、その人の心が清いとは限らない…

「身念処」1-58(50/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <今・ここ>を保持する為には、正念正知でもって身・心を観照しなければならない; 心に煩悩が無い時にのみ、(図1-3)にある所の、前三個(=色法、心所、心王)の所縁を、見ることができる。 身・心を所縁と…

「身念処」1-57

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 出世間法の範囲においては、涅槃が所縁となる。道心(道識)と果心(結果)は、涅槃をもって所縁となしており、煩悩を断じ除く事ができるのは、道心である。 世間の範囲における正念正知は、実相般若であり; 出…