2018-11-05から1日間の記事一覧
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文205) 禅修行者: もし、慧と信のバランスが悪い時、多くの問題が生じますが、信が薄弱な時は、疑惑が出てきませんか? 禅師: その通り! 五根は、共に運用されるべきであり、その中の一つだけが突出して…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P204 ) 禅修行者: 禅師のもう一つの著書《煩悩に嗤われる時》の中で、禅師は信(saddhā)について、ほとんど語る事がありませんでした。 ここにおいて今、信について、その意味とその重要性について、説…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <注7> 捨離=ジャーナ;義註では、以下の様に解説する: ”身軽安” は、名身(nāmakāyo)の軽安。 ”覚楽” は、身と心所の楽しさを経験する事(kāyikampi cetasikampi sukhaṃ)。 ”心の定の獲得” は、出離による…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 多くの経典の中において、仏陀はこの五蓋は、定と慧の障礙になる為、それら(注8ママ)を捨離しなければならない、と述べており、かつそれは近行定または安止定(初禅)によって捨離するのであると・・・。 仏陀は…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”1)彼は世間に対する貪愛を捨離し、貪を離れた心でもって住し、心を貪愛の内から、浄化させる。 2)悩害(=悩みと悩みによって起こる害)、瞋恚と怨恨を離れ、瞋のない心で住し、一切の有情と生類を慈しみ、憐…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 止観 例えば、我々は、仏陀が《長部・沙門果経》(Sāmaññaphala Sutta)の中で、未生怨王(Ajātasattu)に、比丘の禅の修行に関しての説明をする時、”止” と ”観” という言葉を使ってはいなが、しかし、実際には…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P176) 禅修行者: あなたは、我々はそれほど努力しなくても、非常に多くの対象を、覚知できると言います。 それはどういう事ですか? 禅師: あなたの覚知が、益々長時間持続できるようになった時、あなた…