2018-11-23から1日間の記事一覧
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P 50) <注37>《大念処経》の義註は、その前にある《沙珈問經》(Sakkapañha Sutta)の義註に関して、以下の様に言及している。 沙珈天帝(=帝釈天)が、仏陀に比丘の禅修に関して、各種の疑問を質問す…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <注35>《大念処経》の義註では、身体の快楽を了知した時の事に関して以下の様に言う: 仰向けに寝た嬰児が母親の母乳を飲むとき快楽を体験するし、また ”私は快楽の感受を体験している” 事を知っているのである…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 結論 上述の論考は、序論に過ぎない。 故に、我々は、なぜ、心随観と法随観の修習においても、五蘊のすべて、四念処のすべて、及びその生・滅(正順と逆順の縁起)を観照しなければならないのか、という事をこれ…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 今、我々は、受随観に関して、再び重複して解説する必要はないが、しかし、我々は、念処として受を随観する時、六内処と六外処のすべてを観照しなければならない、という事を言わねばならない。 どの様な状況であ…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏陀は、ある經の中のおいて、六種類の受の生起とは、すなわち、六種類の触の為であると、述べており、また別の経においては、六種類の触の生起は、六内処(眼、耳、鼻など)及び、それに相応する所の、六外処(…