Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧

《Vipassanāハンドブック》5-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この二者の間では、死後、悪趣に堕ちる生命は、死亡より尚に、劣悪である。 というのも、四悪趣(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)と大無間地獄は、ちょうど障礙のない空間にようで、人趣を離れた凡夫に対して、大きく…

般若の独り言~パオのソータパナ(2)

では次に、パオには本当に、ソータパ(ン)ナが一人でもいるのか?というご質問。 私の体験を、お話しましょう。 20年前、私が緬甸はモーラミャインの、パオ本山で修行していた時の事。 私たちは、朝と昼の二回、托鉢に行きます。 托鉢と言っても、院内托鉢…

般若の独り言~パオのソータパナ(1)

昨日、読者の方から以下のようなコメントを頂きました(お訊ねの内容について、記憶に頼っています。元の文章表現と、多少異なる事があります。あしからず)。 <パオ・メソッドで修行している人たちの内、一人でも、ソータパ(ン)ナ(注1)を証悟する事が…

《Vipassanāハンドブック》5-1(F)(10/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (五)二種類の趣 趣(gati)は、去処(destination)を指す。 趣は、生命の改変、流転である。 二種類の趣がある: 1、凡夫趣(puthujjana-gati) 2、聖趣(ariya-gati) 前者は、凡夫俗人の生死流転を言い、堕…

《Vipassanāハンドブック》4-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 見妄想(diṭṭhi-maññanā)、 見取(diṭṭhigāha)、 見障礙(diṭṭh-papañca)と 見執着(diṭṭhi-abhinivesa)もまた、 凡夫俗人の着地点であり、支えであり、依止処であり、立脚点でもある。 こうしたことから、も…

般若の独り言~ゆっくりお読み下さい

『阿羅漢向・阿羅漢果』の翻訳が、本日、終わりました。 描写されている内容が内容でしたので・・・ 阿羅漢の悟り!初めて読む高度な悟り体験に吃驚仰天!!なぜか、タイ国内の内紛の描写までも!!謎!!! 主語と動詞が、やたら離れていたり、倒置法が多用…

《Vipassanāハンドブック》4-1(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (四)二種類の地 地(bhūmi)は場所の意味である。 すべての衆生の立脚点であり、育み成長する所。 二種類の地がある。すなわち: 1、凡夫地(puthujjana-bhūmi) 2、聖地(aariyabhūmi) 「凡夫地」とは凡夫…

《Vipassanāハンドブック》3-1(F)(7/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (三)二種類の執着 Abhivinesa とは、堅固で強い信念を言う。 堅固で譲らない事、礎、石柱、記念碑の如くに、心の中に埋め込まれていて、どのようにしても変えることのできないもの。 二種類の執着は、すなわち…

《Vipassanāハンドブック》2-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 「驕慢妄想」とは、個体(=個人)の(+度を越えた)高度な想像、たとえば、常に「私は・・・」「私の・・・」と(+言いたがり)、それが個人の特質として、または外部に存在する物事として、支持され、または…

《Vipassanāハンドブック》2-1(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (二)三種類の妄想 Maññānā の意味は、妄想、自己本位の判断、高度の想像力、または己自身を別の人間であると、想像する事。 無知によって顛倒が生じるが、顛倒によって妄想が生じる。 三種類の妄想がある。すな…

《Vipassanāハンドブック》1-5(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 上記の比喩の中で、巨大な森林は三界ーー欲界、色界、無色界を意味している; 旅人たちは、三界に住む衆生を意味している; 正しい道路とは、正見のことである; 間違った道路というのは、邪見のことである。 こ…

《Vipassanāハンドブック》1-4(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 同様に、我々の思想(=考え)と見解もまた、偽物を本物と見做してしまう事がある。 我々はよくこのように己自身を惑乱させる。 たとえば: 夜、我々は、そこに誰か立っているように思うのだが、実際には、それは…

《Vipassanāハンドブック》1-3(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この種の「顛倒想(ママ)」は、道に迷った人間を例にとる事もできる。 道に迷った人間は、基本的な方位が分からないーー東と西、己がどこにいるのかが分からない。 日の出と日没は、目を見開いていさえすれば、誰…

《Vipassanāハンドブック》1-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 以下、野生の鹿を用いて「想顛倒」の説明をする。 ある農夫がいて、ある日、彼は大きな森の中にいた。 水田を耕して稲を植えた所、耕作者が田を離れた隙に、野生の鹿が来て、柔らかい稲の穂を食べた。 そのため、…

《Vipassanāハンドブック》1-1(F)(1/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (一)三種類の顛倒 Vipallāsa は顛倒、惑い、錯誤的な観察、または嘘を真とする、真を嘘とする等を言う。 三種類の顛倒がある、それはすなわち: 1、想顛倒(sañña-vipallāsa) 2、心顛倒(citta-vipallāsa) …

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-10(翻訳終了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 我々は、この 知る という根本的特性が、身体のどこかの部位に集中しているのだ、とは言えない。 それ以前の、世俗の心は、一つの明確な点を形成していて、我々はそれを見る事が出来たし、知ることもできた。 た…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <なぜ我々は”世俗”の心と”絶対解脱”の心に分けるのか?> それらの心は、(+二つの)異なる心であろうか? そうではない。 それらは同じ一つの心である。 世俗的な真実から言えば、たとえば、煩悩と漏が、それ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <ひとたび心が充分に浄化されたならば・・・>それは光明で清らかであり続ける。 その後に、我々は静かな場所で、安寧と静けさに囲まれる時ーー静かな深夜のような時ーーその時、心がたとえサマーディの境地に入…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心がすでに浄化されて、一切の干渉から徹底的に清浄かつ自由になった時にだけ、我々は、一粒の、一切の恐怖から自由になった心を見ることができる。 その後において、恐怖もなく、勇気もなく、残るのは唯一、心の…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <心の内在は光明であり清浄である> それはあらゆるもの、物事との接触を、保ち続けている。 一切の有為法は、例外なく無常・苦・無我の法則の制限、影響を受けているが、唯一、心の本性は、この制限を受けない…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もう一つ別のレベルでは、心は、身体から完全に分離することができるが、しかし、いまだ受、想、行と識の、これら個人的な心理作用の内から、分離する事はできない。 心の、このレベルにおいては、我々は、智慧で…

般若の独り言~真夜中の翻訳

日中あまりに暑いので、夜中に起きて翻訳しています。 ここは山中の一軒家、愛犬オハナも眠っていて、聞こえるのは、虫の声だけ。なにもかも静かなので、翻訳がはかどります。 『阿羅漢向・阿羅漢果』は本日中にも終了。 「Vipassanaハンドブック」に半月、 …

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心は極端なほど微細である。 その為に、それがどのような構造になっているのかを、明確にする事を、難しくさせている。 唯一、心が、ある一定のレベルの禅定を証得する時のみ、その本質は突出する。 経験のある禅…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心は、輪廻を構成する、真正なる根本である。 それは、有情が不断に輪廻する所の、本質である。 心は、輪廻の扇動者であり、また、生死を相続せしめ、(+我々をして)流転せしめる、主要な駆動者でもある。 輪廻…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 現象の生・滅を、認知することの出来るのは、識(viññaṇa)である。 たとえば、識は、(+以下のものを)認知すると同時に、色、声(音)、香、味、触が、目、耳、鼻、舌、身体に接触した時に生じる影像・イメー…

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 付録:心ーー意識の知るという根本的特性 以下は、アチャン・マハー・ブーワの、幾つかの異なる開示の中から採録した所の、心の特性に関する評論である。 <最も重要なのは心である> 意識の、知る、という根本的…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏世尊の法は、この世間から、滅し去ったのか? 仏世尊の法は、その崇高な地位を、失ってしまったのか? あれら修行者たちーー仏陀の教法に従って、その結果、証悟した人たちは、虚妄の神、または人々の敵と、見…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 私が最近流した涙は、仏世尊と同じことを伝えている。 あなた方は、引き続きこれから先も、己自身の錯誤に気が付かないのであれば、一体どうなると思うか? あなた方の心智は、酒鬼より劣っているというのだろう…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> アチャン・マハー・ブーワは、これまで動揺した事がない。 世界中の人間が吠えたとしても、私は私の心内の言葉を語るし、(+彼らからの)影響を、受けることはない。 法の清浄なる本性は、世間の一切によって、…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> タイの仏教徒の態度は、非常に悪い。 私が一言何か言えば、全国各地の人々は、何事かを吠えはじめる。 可哀そうではある! 私は、あなた方に憐憫する。 これは、仏世尊が、世間がなぜこれほどまでに、無知である…