Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

宗教雑感>還暦おばんの仏教談義―171

最近、腹の立つことが多い。仏教の修行をしたら、心が広くなって、怒らなくなるかと思っていたけれど、最近、人間関係で、どうも心がざらつく。

私が若い頃、瞑想の修行をしていた時、先生から「和顔愛語」「嫉妬禁止」「気付き(アウェアネス)を持って」とか色々教わりましたが、最近の私は、人々に「和顔愛語」が欠けており、多くの人が、内心の嫉妬心に駆られて、不用意に発語しているような感じがして仕方がないのです。

なぜ日本では宗教(心)がはやらないのだろうか?私が考えるに、一つは、戦前、神道の竹やり精神でアメリカと戦争して敗けたので、宗教の事は考えたくない(アメリカが神道を統制?した事も含む)。二つ目は、宗教とは不幸な人間がやる事、という誤解。三つ目は、オ〇ム事件の影響で、宗教を怖いものだと思っている事、などなどでしょうか?

日本を離れて台湾や、タイ、ミャンマーに行くと、そこには当たり前のように宗教が生活の中に息づいています。何かの時には、自分の宗教観を披露したりもします。宗教は、単なる社会道徳にとどまらず、<自分がどこから来てどこへ行くのか?>を問う哲学・思想です。

己の真実の姿を知る事抜きに、会社に勤めて出世したり、お金をたくさん貯めたり、人に才能を褒められたりして、何かよい事でもあるのでしょうか?

自分の真実の姿を知れば、小欲知足で生きていけます。小欲知足とは、窮屈な禁欲主義ではなくて、「人間本来の<自然体>で生きていれば、あなたに必要なものは、宇宙が、地球がプレゼントしてくれること」を知る事です。己を知らず、設定した人生の目標が間違っている時、馬車馬のように働いても、次から次へと恋をしても、ブランド品を屋敷一杯に買いこんでも、なお欠乏感から解放されず、不幸なままなのである。

その硬く握った拳を広げたなら、努力せずとも、全宇宙はあなたのたなごころの上にあるのに・・・。

(他人を批判すると、ブーメランのようにそれは自分へと帰って来ますね。だからと言って貝にもなれず・・・。自戒を込めて)