Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

存在と行為>還暦おばんの仏教談義―179

以前のブログにも書きましたが、私の中で、なんとなく違和感があり、しかし、それを明確に理論的に説明できなかった問題~~<人は最初から許されている(悟っている)存在なのだから、何をしてもいいのだ>的な、仏教で言う所の、本覚思想への賛否に関する問題について、今日、ある人(心臓外科関係の医師)のブログを読んで、「なるほど」と思いました。

彼は<人の行為は、なんでもOKなんてありえなくて、やってはいけない悪い行為というのはある。しかし、人間という存在、その存在そのものは、絶対的肯定に値する>という事を、ブログに書いています。

我々一人一人の人間は、聖者でも神様でもないから、毎日のなす事に、多少の、または多くの間違いを犯します。殺人、窃盗、詐欺等は極端なものとしても、賭博、夫婦喧嘩、子供の虐め、他人の悪口その他色々、仏教で言うアクサラ(悪い行い)は、日常茶飯事です。そして、この悪い行為は、<人間だから仕方ないよね>ではなくて、極力、自制した方がよい、と私は思っています(度が過ぎた本覚思想に、私は反対な訳です)。

ただし、どんな人間でも、たとえ重罪の殺人や窃盗や詐欺を行った人間であっても、その<存在そのもの>は決して否定してはいけない。どんな人間でも<そこ>に<いる><価値>が<ある>のです(だったら、死刑には反対ですよね?と聞かれると、一つは、私が刑法に疎い事と、提起している問題の質、設問の次元が微妙に異なるので、答えにくいけれど)。

この人はブログで「野に咲く花が、どれも否定されないのと同じく、人間の存在も、誰一人として否定されてはならない」と書いていて、「なるほど、いい事言うなぁ」と思いました。ただし、この人も書いているように、だから人間は何をしてもいい、という事ではありません。人類に対して、取り消しのつかないような、ひどい悪事を働いた極悪人であっても、その行為は憎んでも、その存在を憎んではいけない、という事ですね。

また、この人は「日本人は、人の行為を批判する事と、その人の存在を否定する事の意味がごっちゃになっていて、精神的に不健康である」と言っています。私は過去に、中国で仕事をしていて、人と言い争った事がありますが、その中国人は、私の行為言動自体を批判しても、私の人格には一目置いているのが分かり、喧嘩していても、なんだか心地良かったことを思い出します。ある民族が、または個人が、<存在へのメタ的受容感>を持てるかどうか、が問題なのだと思います。

長い間、ずっと気になっていた<本覚思想の正しい位置づけ>について、ようやく納得の落とし所が見つかって、ホッとしました。

よい新年が迎えられそうです。