南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

いたわしいか?>還暦おばんの仏教談義―182

女優淡路恵子さんが亡くなった。それに対して、デヴィ夫人が「だんだん痩せていくのを見て、いたわしいと思った」とコメントしています。デヴィ夫人と淡路さんは懇意の仲だったので、「いたわしい」という言葉に万感を込めたのかと思いますが、ここでは、「痩せて死ぬのは本当にいたわしいのか?」という事を考察してみます。

いつの頃から、日本はアメリカに似て、死ぬことを忌み嫌うようになりました。アメリカでは死者に化粧を施して、生きたようにみせかけて葬儀する、と聞きました。

しかし、人間は生まれてきた以上必ず死ぬし、突然死は別として、病死・自然死の場合、死ぬ時はご飯が食べられなくなって、痩せて死ぬのが当たりまえなのではないでしょうか?

私はよく水中運動に行きますが、ある人から「妹が癌で、やせ細って、小学生くらいに小さくなって死んだのが不憫だ」と言われましたが、私は「太ったまま死んだら、本人も苦しいので、枯れ木が倒れるように死んだなら幸せだ」と返答しました。

「死んで幸せ」という言い方は不謹慎かも知れませんが、100歳くらいまではともかく、人の世話になりながら、150、200歳と生きたら、その方が、ちょっと・・・ではないですか?

現代の日本は、生を美化しすぎ、死を恐れすぎる。

生と死は、一枚の紙の表と裏の関係だ、という事に思い至れば、人生の最後において、食事もできず、水も飲めないまま、たまった腹水を使い果たして死ぬ事~即ち、枯れ木が倒れるようにして死ぬのは、よい事なのだと思います。

上記の意見には、<平穏死>の中村仁一医師や長尾和宏医師の受け売りも含みますが、今の私は、人の死を必要以上に、忌む事はない、そう思っています。

追記:デヴィ夫人は、社会的な影響力のある人なので、たとえば「淡路さんは、苦労した割にはいいお顔だった」とか「顔も身体も一回り小さくなって亡くなったけど、お顔は綺麗だった」みたいなコメントをして欲しかったですね。「いたわしい」というのは、勝者の上から目線。しかし、もともと、死は、敗北ではありません(確かに不慮の事故なら、「いたわしい」かもしれませんね。しかし、病死・自然死に「いたわしい」を使うと、私には、<勝者の上から目線>を感じてしまいます。マスコミは発言者の発言を、全部は載せないので、上記文章は、あくまでインターネット上で読んだデヴィ夫人の発言への感想です)。

デヴィ夫人は親友としての発言で、「いたわしい」に、上から目線を込めた訳ではないかも、しれません。会ったこともないデヴィ夫人を攻撃している訳ではありませんので、誤解なく。

追補:タイでは、お葬式に<死んでよかった><死んで幸せ>というお経を読みます。
死は、次の生への入り口だからです。そういう事を力強く言ってくれる僧侶が、側にいて欲しいと私は思うのです。