<身苦心不苦>は仏教用語で、この言葉自体は中国語です。原典はパーリ語かサンスクリットかと思います。漢文の得意な方は「身苦しくとも心苦しからず」と下して読むでしょうか?
我々は身体が痛い、気分が悪くてつらい時、心までクサクサして、落ち込みます。腕が腫れて痛いのに、薬を飲んでも治らない時「え~~い!こんな腕なんかいらない!いっそ切リ落としてくれ!!」などと物騒な事を言ったり、思ったりします。
タイ人で、生徒に飛び込みの演技をしていて、プールの底に頭を打って、首の骨を折り、首から下が動かせなくなった、体操教師のカンポンさん。
彼は身体障碍者になった後、寝たきりのまま、手首だけは動かせるという、最後に残ったギリギリの機能を利用して、その動いている手首の感触に意識を集中させることによって、サティ(気づき)の心を育て、身体と心は一体であるようでいて、実は一体ではなく、一体でないようでいて、時には一体である、という事に気が付きました。
そして、ベッドの上で僧侶に指導してもらいながら、心の観察力を育て、強化し、最終的には<サティのある健康な心で、不健康な身体を観察する技>を習得しました。こうして彼の心は、身体の不健康性に引きずられたり、巻き込まれたりすることはなくなりました。
例えば、我が家にやってきた子犬が、ヨチヨチ歩いてあっちに行っておしっこをし、こっちに来てじゃれてみて、お母さんが恋しいと、ク~ンク~ンと鳴いてみて・・・、これ、何を見ても楽しいでよね。おしっこをしても、雑巾で拭けばいいし、じゃれたらヨシヨシと頭を撫でてあげればいいし、ク~ンク~ン鳴くのも家に慣れるまでの、2、3日の辛抱だということが分かっているから。要するに大人(飼い主)の心の余裕、という訳です。
一時は絶望の淵に立って、自殺をしようとしたカンポンさんも、心に真の大人としての余裕を取り戻した時、自分の動かない身体に、にっこりほほ笑む事ができるようになりました。
彼は今、車椅子に乗って大好きなバスケットボールを指導し、また、週一回、ラジオ局に出向いて、タイの人々に、仏陀のダンマについての法話を放送しています。
「身苦心不苦」の典型ですね。
サティ、心に気づきの力を育て、心が身体を観察している状態を保ちつつ、身体の不具合による身体的不快感に、心が巻き込まれないようにする。
これが仏陀の教えた、身体性の苦しみの中で心穏やかに生きる技~身苦心不苦~なのです。