「闘病記>はじまりの一」で、<サマーディと脳内麻薬>を書きます、と予告しましたので、本日はこれを書きます。
私は子供の時から仏教(特に禅宗)が好きで、15歳の時に「高校進学をやめて、山田無文師に弟子入りしたい」と思っていました(これは、父になんといって説明していいのか分からず、未遂に終わりましたが)。
ただ、禅宗が好きなのに、一つだけ分からない事がありました。
それは、「なぜ、座禅するのか?」です。
禅宗が好きなのに、座禅に疑問を持つのも、大いなる自己矛盾ですが(笑)、当時(いまでも)、子供に座禅の意義を分からせるような本は、出ていなかったのですね。
それで私は、「座禅とは、会社に失敗したおっさんが~今も昔も、座禅するのは男性が多いから~現実逃避の為に、座布団の上に座って、時間を消耗しているのだ」「自分は、座禅だけはしたくない!」と思っていました(笑)。
後に、この誤解が解けたのは、中国に出張した時訪問した鄭州嵩山少林寺で座禅の意義を教えてもらった事と、新聞などで、座禅している禅僧の頭に電極をつけて脳波を計り、禅僧の脳からは、普通の人にはない α 波や β 波 が出ているとか出ていないとか、そんな事が話題になってから、「これは何かあるな!」と思うようになりました。
そんな訳で、私は今回、腸閉塞の手術の後、アーナパーナサティ(呼吸を観る瞑想)で、サマーディ(=禅定、変性意識状態)に入れるか、入った場合、私の脳は、どのように変化するか、α 波 や β 波 がでるかどうか、脳内麻薬が出るか、そんなところを体験したかったのでした。
結論は、アーナパーナサティが出来ればサマーディに入れ、その時、脳内麻薬はでる、というものです。機器類で計った訳ではありませんが、アーナパーナサティで一点集中していて(これをアビダルマでは<一境性>という)、サマーディ状態にある時は、手術の傷が余り痛まないか、または痛んでも恐怖心が生じなかったからです(恐怖心とは、脳が勝手に作り出す、一種の<幻想>ですね)。
私は現在65歳ですから、これから先、いつ死んでもおかしくない。
死の間際、サマーディ(=禅定、変性意識状態)に入り、恐怖心に打ち負かされることなく、明瞭な覚醒を保ちつつ、自分の意志で、自分の行きたい来世を選び取れる事が出来ればいいなぁ・・・。
私はやっぱり、もう一度人間に生まれて、修行僧、やるかな。
今度は 15歳 でね!!(笑)。。