今日、謡曲のおさらい会が、某ホテルでありました。
A さんという女性がいます。
彼女と私は、だいたい同じころに入会した同期、初心者仲間です。
私は Aさんを特に何とも思っていないのですが(可もなく不可もなく)、彼女は私に対抗意識を燃やして、時々つっかかってきます。
今日はこんな事がありました。
私が着物に着換えていると(おさらい会には必ずつけさげか小紋を着るので、会場の着替え室で着替える)、
Aさん「あら~~、あなた細くて羨ましい」「細い人は補正すると、着物を美しく着る事が出来ていいわねぇ」「でも、本当は、貴女くらいの背の人なら、Bさんみたいに、もっとでっぷり太っている方が押し出しがあって、恰好いいのよね」。私の隣にいた私より背が低くて<でっぷり太った>Bさん、思わず「あら、背格好なんて人それぞれで、自分でどうこうなんてできないわよ(遺伝だって関係あるし・・・)」
最初に褒めて、次に落とす・・・私の何に対抗しているのでしょうか?私には分からないので、にっこり微笑んでおきました。
おさらい会が終わって帰り際、ある先輩が私に「貴女の子方(子役)とても良かったよ(高い声がしっかり出ていた)」と言いました。私は「ありがとうございます」とお礼を言いました。
すると Aさん「貴女、声がよく出ていたといっても、私なら、あんな甲高い声、恥ずかしくて出せないわ。あ~~いやだいやだ。大の大人が恥ずかしいったらありゃしない」
隣にいた人が思わず私を擁護してくれました「子方なのだから、先生に教わった通り率直に高い声を出して、恥ずかしいなんてことがあるはずないでしょ!」
彼女は私の何に対抗しているのでしょうか?私にはわからないので、ただにっこり微笑んでおきました。
確実に分かる事。それは他人の長所を認める事が出来ないで、あからさまに口に乗せて他人を貶める口癖(口業)と、その種の心性が立ち上がる意識作用(意業)は、カルマ(心の深層部の癖、心の垢)になる、という事です。
垢というものは、少量皮膚についている時はどうって事ないですが、一定量集まれば、やはり、重くもなり、臭くもなります。
心の垢も同じで、いつかある日ある時、心の垢がある一定量たまると、その垢は重くなり異臭を発し、所有者の人生は暗転し、やがて苦しみに巻き込まれます。たとえ今は、幸せでも、です(これを「異熟」といいます)。
私はこういう時、キリストが磔になった時に言った言葉を思うのです「ああ、神様。彼らは、自分が何をしているか、知らないのです」「どうか許してあげてください」
仏教的に言えば「彼女は自分のしている事がカルマになる事を知らないのです」「どうかこれ以上、彼女が悪いカルマを蓄積しませんように」(仏教では、その人のカルマはその人につき従うので、自己責任=仏教用語で自業自得、とします。その点で言えば、仏教は、非常に厳しい教えだと思います)。
仏陀は他人のカルマ、因果応報を見通したそうですが、私にはできません。
私にできる事は、他人を貶める事が習慣になっている人にはただ微笑んで、その人のカルマがこれ以上悪くならないように祈るだけ、です。
追記:
1)謡曲を習っている人は<時分の花>と<まことの花>の区別ができていなければなりません。そもそも、謡っている曲の内容が「瞋恚の炎消し去って」とか「功徳を積んで」という仏教説話が多いです。曲意から人生哲学を学ばないで、ただパクパク口を動かして歌っているだけでは、余りにももったいないと思うのは、私だけでしょうか。
2)テラワーダ(南伝仏教)のお経の中に「人は自らの業の主人たれ」というのがあります。自分のこういう行為は、こういう結果をもたらすので、しない。または、損得を度外視してもあえて行うという、自己責任を基とする、生きる姿勢へのアドバイスです。
仏陀は「何よりも自己に打ち勝つこと、心の自制が最も大事である」と説いています。