私が好きでよく見ているブログに<吾>というのがあります。
このブログでよく一条真也さんの事が話題になります。
それで、一条さんのブログを覗いてみたら、一条真也というのは
ペンネームで、本当は北九州市で冠婚葬祭業をやっている人でした。
で、この人が6月6日、福岡天神で「花祭り・お葬式は必要だ」と
いう題で講演するようです(聞きに行く予定です)。
私が 4年 ほど前、放送大学で台湾の仏教関連の論文を書いた時、
担当教官から「大学院に進学して、日本のお葬式、生死観について
研究し、それを論文にまとめてみてはどうか?」とお誘いを受けた事が
あります。
放送大学とはいえ、大学院の学費が高そうだったのと、日本の浄土宗に
余り関心がなかったので、日本(人)の生死観を研究するのは気が
進まず、その時は大学院への進学を断ってしまいました。
今、病院ないしは自宅で亡くなった後、葬式をしないで、直接火葬して
しまう<直葬>が流行っているようですが、これを批判する人がいます。
多分、葬式をしないと、残された者の気落ちの落としどころがない、
という事かと思います。
現代の日本で、お寺と僧侶への信頼が薄れていて、お葬式もしたくない、
と言う人が増えているのは、一つには、輪廻の問題があると思います。
日本は戦後、科学・物質至上主義になってからこの方、証明できない
ものは信じないという立場から、駒澤大学の教授(家に帰れば僧侶!)
でさえも、「輪廻はない」と言い切っています。
では、輪廻のない人生、死んでしまえばそれで終わりの人生、そういう
人のお葬式って、どうあるべきなのでしょうか?(そんなお葬式に、
なぜ僧侶が般若心経などをレイレイしく読経するのか?訳が分からな
いです)
私は仏教徒なら基本<輪廻はある>という立場に立ち、その上でお葬式は
どうあるべきかを考えるべきだと思います。
私がタイで見たお葬式は、とても簡素で、在家の方(葬儀屋ではない)が
主宰し、僧侶~死者が生前師と仰いでいた比丘~が4,5人お客様として
招待されて来ていましたが、彼らはお経を読んだ後、すぐ引き上げまし
た(読経したお礼、即ちお布施として、法衣を頂く事が多いようです。
戒名代とか何とか代とか、現金が動くなんて言語道断でしょう)。
出棺後火葬場に行った訳ですが、みなさん(親戚、友人の方々)全然
悲壮感などなく、普通に笑談していました(さすがに嬉しそうに高笑い
している人はいませんが・・・)。
お葬式が必要かどうか、必要ならどんな風なのが良いのか?
それは亡くなった人、お見送りする人の人生哲学と深く関係している
と思います。
実は、輪廻すると思えば、人の死は、それほど深刻ではないのです。
それよりも悪業を積まないで生きてきたか、次の行先で、さらによき生を
生きていけるか、そのことの方が大事なのです。
私は息子や親戚が、深刻な顔をして集まる葬式ならやって欲しくない、と
思っています。
追補:輪廻は<三世両重因果十二縁起>という概念と<一念十二縁起>という概念に分けられます。中国でも「輪廻はない」という僧侶はいますが、それは輪廻自体、心が見る夢みたいなものなので、余り輪廻にとらわれるな、という文脈で言っています。日本の<証明できないから、ない>という発想ではありません。<証明できないから、ない>と言い切る人はしかし、「座禅・瞑想すれば自分の前世を思い出せるのに」という反論に、どう答えるのでしょうか?(有る無い論争、水掛け論は仏陀の一番嫌うところですから、私も論争はしませんが、私の立ち位置、という事で・・・)。