Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵日記>シャンカラと親鸞

図書館から宮元啓一先生の「インドの『一元論哲学』を読む」を借りて読んだ。以前も一度借りて読んだのだけれど、その時は難しく感じて、よく理解できなかった。

今回、少し理解が進んで、ハタと膝を打った。

私の謡曲の師匠、 M 先生のおかげ。

M 先生は浄土真宗の門徒で、いつも私に「修行なんかしてはいけない」「先生(見識のある僧侶)の法話を聴く事」「法話を聴くのが修行」とおっしゃっいます。アナパーナ瞑想が好きな私としては、とても承服できないが、謡曲の練習中に仏教談義をする訳にもいかないし、「は~~、そうなんですか」と聞き流していたのだけれど・・・。

インドの一元論シャンカラは言う「師匠が説くダルマの<知識>を吸収する事が大事であって、修行してはいけない」あら~~、親鸞さんと同じ事言っている!!

実は、シャンカラが活躍していた時代、インドではバラモン教が盛んで、バラモン教は祭事ばかりに血道をあげていたのである(自分の外に神がいると想定して神を祭るのは二元論者)。

それをシャンカラは、一元論を説くことによって祭事の無効性を主張し、一元論者の修行方法として、以下のような主張をなした。すなわち・・・

「<真の自己>は、この身体でもないし、心でもない。<真の自己>とは、身体にも心にも依存しないナニカであるが、それを悟りたくて修行すると(この場合の修行とはインドに流行る<苦行>を指すと考えると分かりやすい)、修行した事がカルマ(=心の癖、および心の癖から出る行為自体、また、行為の蓄積と結果)になり、次の輪廻を呼び寄せてしまうから、修行はしてはいけない。ただひたすら(悟りを開いた先人の)師匠から<知識>を学べ」と言っている。

シャンカラ一元論哲学は、実は、宇宙の法(=認識論)への<知識!>を欠いたまま、いや、欠くからこそ、祭事に血道をあげるバラモン教への、バラモン教シャンカラによる痛烈な内部批判なのである(新興の思想、主義主張というのは、その時代へのアンチテーゼである事が多いので、時代的・歴史的背景を抜きに考えると間違える)。

私自身は、話(法話)を聴いただけで悟るなんて事は無理、不可能だと思っているのだけれど、機根のよい人で、法話を聴いただけで悟る人はいるらしい。

ただし、シャンカラ親鸞の言う「修行をするな」「法話を聴くのが修行」という主張は、そういう機根のよい人への限定的指導法ではなくて、万人に適応する指導方法として主張している。

私はブッダの説く、「アナパーナによってサティ、すなわち、自分が何者であるかに気付く<気づき力>を育てよ」という理論と方法論が好きだが、シャンカラ親鸞は、「法話を聴聞する事によって<気付き力>を育てよ」と主張しているのだ(真宗には<妙好人>がいるから、あながち間違ってはいないのかも知れない)。

シャンカラ一元論に異存はないが、瞑想修行を否定する所がよく分からない(否定したのはいわゆる<苦行>ではないか?もう少し勉強してみたい)。

ただ、シャンカラの言いたかった一番基本の部分については、ようやく得心がいきました。

追補:シャンカラは紀元五世紀に生きたバラモン教徒だが、バラモン教の、堕落した司祭依存生活を批判し、返す刀で仏教を批判した。彼に批判された仏教界は改革・革新に務めたので民衆の支持を得て盛り返した。その為、シャンカラは「隠れ仏教徒」と揶揄されることがある。私は、シャンカラを学べば、(当時の)バラモン教の欠点も、仏教の欠点も分かると思っていて、興味がつきない。