2014-06-08 是誰庵仏教談義>見性成仏 仏教 仏教には<見性成仏>という言葉がある。 見性とは、<自己の本質に気が付く事>、即ち、自己に内在する仏性に 気が付く事だ、と定義する事ができると思う。 それで、中国の禅宗系の人々(日本も含む)は、<見性すれば即ち仏> というのだけれど、これに待ったをかけた僧侶がいる。 台湾の釈従信である。彼は台湾にいながら大乗仏教を批判した人で、 著書の中で<大乗は何事においても表現が大げさで、大乗に言う所の、 見性すれば即仏など、ありえない><仏になるには見性した後も長い 年月の人格的研鑽が必要である>と述べている。 日本の僧侶で、確か夢窓国師だったと思うが、彼は見性した後、 京都の河川に行って河原乞食と一緒に生活していた。 この行為は、見性する事によって、欲やプライドなどがどれだけ薄れ たかを自己検証しているのだと思われる(タイでは、悟るとインドへ 行って、最下層のカーストの人から食べ物を貰い、それを食する事が できるかどうか、そのことを通して自己を試すそうである)。 人の本質は仏性であり、それは大慈大悲と智慧に満ちたものである けれども、それに気が付かなければ、ないのと同然。 その上、たとえ見性したとて、仏陀への道はまだまだ遠い、という事 であろうか。人生は四苦八苦、いばらの道なのである。