2014-07-26 是誰庵仏教談義>お百姓さん 仏教 雑談 私は、若い頃、牧場にお嫁に行きたかったけれど、牧場というのは北海道にしかなく、北海道の牧場で暮らすには、吹雪の朝でも起きてきて牛に餌をやらないといけないと思い込んで、断念したことがあります(牛を飼う牧場って、日本中にある事が分かったのは随分後になってから)。 次になりたかったのはお百姓さん。お百姓さんは100の仕事ができる人、即ち自給自足の生活ができる人。ちょっと憧れますね。 先日、図書館から「はたらきたくないというあなたへ」という本を借りてきました。「最近の若者は働くことに魅力を感じないらしいが、そういう風潮は、如何なものか?」と、この著者はいいます。まだ最後まで読んでいないので、著書の批判をしている訳ではないけれど、私は、若者ははたらきたくないのではなくて、(会社に)勤めたくないのだ、と思いますね、私もそうだったから。 一日8時間、残業と通勤時間を含めると12時間以上、会社と言う機関に身体も意識も縛られて、自分が自分でなくなるような恐怖感。仕事があってもなくても、じっと机の前に座っていないといけないし、仕事が早く済んで手持ちぶたさになっても、勝手に帰る事もダメ。疲れて休暇を取りたいと思っても「疲れたから」は理由にならず、本当に病気になるか、親族の葬祭くらいしか休めない。 会社勤めに成功する事を<社会的に大人になるのだ>というのなら、私は大人になんかなりたくない、と思ったものです。だから私はフリーランサーになりました。仕事の注文が来るのをただ待つだけ、というフリーランサーの立場は不安定で、精神的につらいけれど、毎日定時の通勤電車に乗るよりはまし、と思ったものです。 私は、本当は、自給自足のお百姓さんになりたかったけれど、仏陀はバラモン教徒に「お前は説法はするけれども、働いていないではないか(畑を耕していない、生産活動をしていない)」と非難された時、「人間には畑を耕すより、もっと大事な事があるのです」「それは心を耕す事です」と答えています。 インドでは、民衆やお金持ちからのお布施に頼りながら、修行三昧の生活を送る事が出来る社会的背景があったので、仏陀もこういう風に答える事ができたのでしょう。 仏教が中国に入ると、インド程民衆に頼れないので、中国の禅宗は「一日なさずば一日くわず」といい、作務を修行の一部分として、位置づけたのでした。 私も修行三昧の生活を送りたいけれど、私にお布施してくれる人はいないので、多少の経済活動をこなしながら、パソコンもこなし、ミシンも使い、畑もやって、100とはいわないけれど、なるべく自律(自立)的な生活、お百姓さん的生活をしたいものだと思っています(結局、子供の頃の一念は、大人になって、ちゃ~~んと甦るという訳ですねぇ)。