Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義その6>カンティ(忍辱)

ゴータマ仏陀の教えの中に<慈悲の教え>というのがあります。

それに敷衍して「何事も忍耐」「忍辱、耐え忍べ」と仏教系の識者は言います。

しかし、このカンティ(忍辱)という教え、正しく理解しないと、人生、変な方向へ行ってしまいます。

何かでつらい思いをして、「ここは忍耐のしどころ」と思う時、是非とも自問自答してください。これは忍耐に値する事柄か、どのように忍耐するのが本当の幸せか、と。

ゴータマ仏陀は、2500年前に瞑想によって覚悟し、「人は皆平等である」「四姓差別は人間性に反する」と高らかに宣言して、当時のバラモン教の、シュードラは悟れない、シュードラは何度生まれ変わっても奴隷であるべき、という教えに真っ向から反対したのです。

仏陀は、決して「差別されても忍耐せよ」とは言いませんでした。言われのない差別には抵抗せよと言ったのです、但し非暴力で(←これがカンティです)。

また、仏陀は、<吉祥経>の中で「愚者と交わるな」と説いています。他人を「愚者」と決めつけるのは、慈悲の教えに違反しないのか?

仏陀の教えは、人を見て説く対機説法なので、表面上、言語上、色々矛盾しているようにみえて、私たちは混乱してしまうのですが、しかし、その中から仏陀の教えの真髄、本当の智慧を掘り出さねばなりません。

カンティ(忍辱)は、ただやみくもに耐え忍ぶことをいうのではなく、ヨニソ・マナシカーラ(=如理作意=正しい方向に自己の意識を向かわせる事)に基づいて行うものです。

では、何の方向に?それは無常・苦・無我の三法印の智慧の方向へ、です。という事は、智慧がないと如理作意ができない。如理作意ができないと、智慧は生まれない。

仏陀の教えは、サティ(=気づき)を最重要視しますが、気づきがない人には智慧がない、智慧のない人は気づきができない、卵が先か、鶏が先かの問題、最初の一歩が踏み出せないと、思考は悪循環するのですね。

仏陀の教えを実践するにあたって、ここのところ、即ち、卵と鶏の自縄自縛を乗り越える事、実はこれが一番難しい。

(昔、禅宗の僧侶に「つべこべ言わずに、まずは座れ」と言われて「座る理由が分からない」と言って抵抗した事がありますが、今にして思えば、座って正解。

私も<卵か鶏か>で、心が雁字搦めになっていた時代がありました~~苦笑)。本日のブログは、AKさんのブログを参照させて頂きました。。