南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵仏教談義~12>前世の記憶ー2

昨日ブログに輪廻の話を書いた所<続きが読みたい>というコメントが入りましたので、もう少し、私の記憶、体験を書いてみます。

まず、インドやタイでよくフラッシュバックするという件。

結論から先に書きますと、私は過去世において、タイ、緬甸、中国雲南省の国境あたりにいた事があるのではないか、それも比丘として、という事があります。

私はテーラワーダを学ぶために、35歳の頃からタイに行くようになりましたが、正式にタイ語を学んでいないのに、結構分かるのですね、タイ語が(日常会話もそうですが、仏教用語も、たとえば、天台止観と言われてもピンとこないのに、サマタ・ヴィパッサナと言われると「あっ、それやりたい!」って、なぜか内容を説明してもらう前に、分かってしまう)。

また、タイの秘境メーホーソンに行った時、シャン族のログハウスを見て「あっ、これ、以前(過去世で)私が住んでいたのと同じ(タイプの)家!」とピンときたり。

インドでは、田舎のお土産屋さんに行った時「私はこの辺りで象嵌職人だった事がある」とデジャブ感が湧いて、背筋がぞっとした事があります。

というのも、私は創造的な絵を描くのは苦手ですが、チマチマした画風(ペルシャササン朝の、立体感のない緻密画等)の、他人の絵をコツコツ模写するのが好きで、高校生の時に象嵌職人になりたいと思っていた時期があったのです。

昔の高校生は情報不足で、象嵌を学ぶにはどこに進学すればいいか分からず、また分かったとしても、当時、女子の大学進学はよほど恵まれた家庭でないとできなかったので、最初からあきらめていた風もありました。ですから象嵌職人にはならなかった、なれなかったのですが、インドで「私は過去世で、象嵌職人だった事があるんだなぁ」と、高校時代の象嵌への情熱が、どこから来たのかが分かり、感慨深いものがありました。

なお、最初に書きましたように、私は過去世では比丘だった事があります。

これは、瞑想で確認できました(東京の某宿泊瞑想会に参加した時、4、5日目にサマーディに入り、額の前方に、壊れたTVみたいな、砂嵐状の映像が表れて、自分が比丘だった時の後半生を走馬灯のように観る事ができました。瞑想中の現世の私と、過去世の私~砂嵐状映像の比丘~と対話をすることもできました)。

仏教は<有情は輪廻する>という前提に組み立てられた思想・哲学・ダルマです。駒澤大学公開講座で、僧侶兼教授が「輪廻はない」「釈尊が瞑想で悟ったというのは、深く思慮・思索したのであって、前世を思い出したなんて嘘」と言うのを聞いて、仰天した事があります。

駒澤大学の僧侶・教授が輪廻を否定する・・・あなたは何を目標に生き、何を目標に修行しているのか?

それを私は問いたいと思います。

(子供の時の不思議体験、次回に続く)