先日、長年タイで暮らしている日本人の方から、ちょっとした用件の問い合わせメールが届きました。その時、話のついでに<宗教と科学は一枚の紙の表と裏の関係だ>と返信したら、もう少し詳しく説明して欲しいと言われ、以下の文章をメールで送りました。何かの参考になるかと思い、ブログにて公開します(前後分かりやすくなるよう多少加筆し、追補も加えました。ご参考まで)。
タイ在住 P・Aさま
宗教と科学は一枚の紙の表と裏の関係について。
そもそも、どこの国も民族も、まずアニミズム(汎神教)があったのです(太陽や月、雨とか雷とかへの崇拝)。そこへ西洋で、ユダヤ教(キリスト教含む)の一神教が生まれました。ユダヤ教やキリスト教がいう所の<父なる神>は本当にいるのか?というのが、ヨーロッパ人の中で大きな疑問になり、いるならいるで、父なる神の存在を証明しようとして、宇宙の観察や宇宙法則の実験、観察が始まったのです。神の存在を、頭で考える哲学方式ではなくて、定量的に実験して数字で確認していくのが<科学>なんです。
でも、インドの宗教観(仏教含む)から言わせると、神はいるか?と実験を繰り返している当の本人、自分自身が一体何者なのか?が分かっていないのに、自分の外部の観察をしても、意味がない、という訳(それで東洋では、瞑想が発達し、科学は発達しなかった)。
科学は(自分の外部に)神がいるかどうか確認するために発達した手法の一種。瞑想は、自己とは何か?を確認する手法の一種。
科学は、宗教が暴走するのを止める役割はありそうですが、科学と宗教は、一枚の紙の表と裏の関係なのです。
以上。。
追補:ユダヤ人の間で一神教であるユダヤ教が成立したのは、一つには彼らが砂漠に生きる遊牧民であることと、エジプトの奴隷になっていたユダヤ人たちが、エジプトの太陽神信仰(アニミズム・偶像崇拝・多神教)を否定するためにも、一神教が必要だった、と言われています。モーゼの出エジプト記を解明すると、そういう説が出てくるそうです。私自身は、河合隼雄先生の「宗教と科学の間」という本に、非常に啓発されました。また、最近の素粒子物理学は、物事が客観的に外部に存在しているという認識は誤解であるといっています。
宗教と科学は限りなく近い、将来は一つに止揚されるであろう、という訳です。。