Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義~42>不徳

昔、政治家が何か失敗をやらかすと「私の不徳の致す所で・・・」とお詫びしたものです。

勿論、本当に反省しているのか、口先だけなのかは、私のような政治音痴にはよく分かりませんが・・・、昔は自分の不手際、自分の器の小さい事を「不徳」と表現したのですね。

そして、現代、「不徳」と言う言葉は死語になっているように思います。

ゴエンカ瞑想センター(京都&茂原)で宿泊瞑想会に参加すると、ゴエンカさんの声がテープで流れますが、その中に「今は分からないかもしれないけれど、瞑想を続けていくと、いつかは、人生に起こる事は、すべては自分の責任だという事が分かります」というフレーズがあります。

初めてこれを聞いた時(15年くらい前でしょうか)、「そんなわけないじゃん」「(あの事件では)悪いのは〇〇さんじゃん」と思ったものです。

が、最近、ゴエンカさんのいう事がよく分かるようになりました。

例えば、私は近所に住む Aさん(男性)に、引っ越して来て以来、3 年間もセクハラとモラハラを繰りかえされて怒り心頭、今は絶交状態。

勿論、客観的に言っても、私にセクハラとモラハラを繰り返した Aさんが悪いのですが、もう一つ、Aさんがセクハラ、モラハラをした時に、私がその場で適切な抗議をしなかったことが事を大きくしたのですね。

私は、田舎のおじ(ぃ)さんがセクハラやモラハラをするなんて想像もできなかったので、彼が何か言う度に「んんん???」と頭の中がクエスチョンマークで真っ白になったまま、お顔は(平静を保つために)ニタニタしていたのですね。

それで彼は「こいつ馬鹿か」「こいつは組しやすし」と思ったのかどうか、自分の(家庭内の)憂さ晴らしのために、私に上から目線で話し、かつ私をコントロールする態度に出たわけです。

私自身は、Aさんと絶縁状態になった事自体は後悔していないのですが(彼がいないと Y盆地で暮らせないという事はないので)、私がその場その場で、適切な抗議、適切な切り返しができていたら、私も成長したし、彼も少しは反省したかもしれません。

人間関係にトラぶったら、ぜ~んぶ自分が悪いと思うのは自虐すぎるとしても、「不徳の致すところ」と反省する習慣が欲しいものです。

(でも、本当に「全部自分が悪い」のですけどね。これは、毎日瞑想していると分かってきますが・・・。頭で考えて自虐的になるのは、良くないですね・・・教条は危険ですから、やめときましょう)。