是誰庵仏教談義~44>家々都有・・・
表題の<家々都有・・・>は、その後が<難念的経>と続きます。
どの家にも、何らかの解決しにくい難題がある、という意味です(貧乏人には貧乏人の、豊かな人には豊かな人なりの、心配事はつきません)。
キリスト教の日曜学校みたいに、仏教にも日曜寺子屋教室があるとして、で、日曜ごとにお寺に行って般若心経やら、何とか和讃などのお経を読むのは簡単だし、法話を聞いてその場は「なるほど」「いい話を聞いた」と思うけれども、実は家に戻れば問題が山積していて、そして、家庭の問題は、智慧がなければ、解決するのが本当に難しい、という事。
今日、たまたまスーパーの駐車場で出会った近所の女性から、人生相談を持ちかけられました。
これまで自分が何でも辛抱してきたので、夫がとても横暴なのだそうです。夫65歳、妻63歳。
私は溜息が出てしまいました。
65歳の夫と63歳の妻は、これから各自の希望や本音を言い合って、自分の悪い所を直し、関係性を再構築する事ができるでしょうか?
私は「奥さんが旦那さんを甘やかし過ぎましたね」「たまにはプチ家出か、ちゃぶ台返しをしてみたら?」と意見を述べてみましたが、40年かけて固まった家族関係を改めるのに40年、イヤ、40年以上かかるでしょう(後は離婚、ですね)。
私は若い時に「幸せとは何か?」を考えていて「自分だけが犠牲になるのでなく、家族は痛み分けでなければ・・・」と思ったものです。かといって、それを実践するには大変な勇気と知恵が要りますけれど。
日本の女性は「私さえ辛抱すれば」と考える人が多すぎるように思います。「私さえ辛抱すれば」は、自分が 60 過ぎたおばぁさんになった頃、大きな悔恨となって自分を襲う事を知らないのです(そして、そういう仮面的家族関係は、子供もまた心に問題を抱えてしまう。因果は巡る、悪循環なんですね)。
家々都有・・・私はタイや緬甸のお寺で長期滞在して修行させてもらっている時も、この言葉を忘れないように気を付けました。
自分はパーリ語のお経も読めるし、座禅・瞑想もできるけれども、まだ本当には家庭内の問題を解決しておらず、セヤドー(指導僧)の法話を聞いて満足するのではなく、その法話を応用して、家族関係の改善に生かさなければならない、と常に自戒したものです。
追補:ダイソーの創業者は「人は幸せになる権利なんてない」といいます。この事が本当に分かった人は、泣いてなんかいないで、襟を正して生きるでしょう。<万人には幸せになる権利がある>という事を本当に分かった人は、自分を尊重し、相手を尊重し、バランスよく智慧ある人生を生きていくでしょう。どちらの立場に立つとしても、基本の基本、メタ意識を明瞭にしておきたいものです。