Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~21>「火」

#21-150612

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 30に、こんな事が書いてあります。

 

《世の中に、一朝で成し遂げられる事など、何もない。そうであるから、我々が修行を始めたばかりの頃、何らかの結果を得られるという事など、ないのである。私が常々あなたがたに教えているあの比喩のように:ある人が二本の木の枝をこすって火を起こそうとしている。彼は木の枝を見ながら“彼らはこの中に火があるって言うんだ”と言いながら、必死になって木の枝をこすり合わせる。彼は性急で、絶え間なくこすり続けるのだが、ほどなくして面倒になってくる。心では火が欲しいのに、火の影さえ見えない。気落ちした彼は、少し休憩して、その後また枝をこすり始めたが、その時には、すでに熱は冷めてしまっていて、動作はのろのろと鈍くなっている。

彼は、摩擦を持続する時間が足りず、一生懸命こすってはいるものの、疲れたからといって、その作業を停止してしまったし、また、彼はただ疲れただけでなく、やる気をなくして、最後には(枝を摩擦する事を)完全に放棄してしまい、かつ確信をもって言う “ここには最初から火などなかったのだ” と。

実際には、ずっとこすってはいたのだ。ただ、発火するほどの、十分な熱が発生する事がなかっただけなのだ。火はずっとそこに潜んでいる。ただ、彼が最後まで(作業を)堅持しなかっただけなのだ。

我々が心の平静に到達できない限り、心は旧態依然のまま、という事なのだ。

我々の偉大な教師は言う “ただ、継続しなさい。修行を続けなさい”。

我々は “私は頑張ってもまだ(どうやればいいか)わからない。どうしたらいいのだろうか?” と思うかもしれないが、我々は、如法に修行する他に、智慧が現前する事はないのだから、修行を継続するしかない、と言うのだ。ただ不断に修行する事を通してのみ、我々は、自己のあらゆる行為と修行について、思索し始める事ができるのである》(「森林里的一棵樹」より)

 

「継続は力なり」。ホント、もうこれしかないです(笑)。

タイや緬甸(ミャンマー)のお寺で座禅していると「暑いなぁ」「汗を拭きたい」「水が飲みたい」「足が痛い」「部屋に帰ってベッドに横になりたいなぁ」と、とにかく座禅を止める理由はいくらでもみつかります。で、日本でなら修行が進むかというと、おいしい食事、友との楽しい会話などなど、修行を中断する理由は、これまたいくらでも見つかります(笑)。

輪廻の恐ろしさを知ってそこから離れたいと心底から思い、愚直に修行する。ネッカンマ、これしかありません。

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)