Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~23>「漁師」&「魚と蛙」

 

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 32とP33に、こんな事が書いてあります(二話)。

#23-150614

《我々が行う禅定(静慮)の修行は、我々に癒しをもたらします。一つ例を上げましょう!たとえばちょうど網をすぼめようとしている漁師がいるとします。網の中には大きな魚が一匹。あなたは、彼が網を引くときにどのような気持ちになるか想像できますか?もし彼が魚を逃すのを心から恐れていれば、待ちきれずに、急いで網を引き揚げようとします。このようにすると、彼の稚拙な操作によって、彼の気が付かない内に、魚はいつのまにか逃げてしまうでしょう。

大昔、彼らはこのように我々に教えました。あなたがたはゆっくりと、気を付けて網を引きなさい。でないと魚が逃げてしまう。我々の修行もこれと同じように、修行によって、ゆっくりと自分の行く道を模索し、見つけ出すのがよいのです。取りこぼしのないように、細心の注意を払って網を引くのです。我々は、ある時は、修行したくないと思う事があります。それがなぜなのか、我々は理解しようとしないし、知りたいとも思わないけれども、それでも修行を続けなければなりません。修行のために引き続き模索するのです。これこそが修行です。もし修行が好きなら修行しなさい。修行が嫌いでも、やはり、修行しなさい。長期的に、不断に修行するのです。

我々がもし修行に精進するなら、自信と確信が、我々の修行に力を与えてくれます。ただし、この段階においては、我々にはいまだ智慧はなく、いくら修行に頑張ったとしても、その中から利益を受ける事はできない。このような状況は非常に長い時間持続し、我々をして永遠に正しい道を見つける事ができないのではないかという気持ちにさせたり、または、静謐に至る事ができないのではないかとか、または自分には修行するための十分な条件が備わっていないのではないかとか、または “道” を見つけることなどとても無理なのではないかという気持ちにさせる。そうして人は、修行を放棄するのです。

このように、我々は非常に、非常に気をつけて、最大限の忍耐力と意志をもって――大魚を網で引き寄せる時のように――徐々に自分に合う方法を探し出して、その後に細心の注意を払って網を引き寄せるのです。このようにすれば、網をすぼめる事もそれほど困難ではなくなり、我々は引き続き網を引き寄せ、すぼめる事が出来ます。しばらくの時間が経って後、魚が疲れて暴れる事が無くなった時、我々は魚を軽々と捕まえる事ができる。上述の事は、修行する上でよく発生する事柄であり、我々はただ、ゆっくりと修行し、細心の注意を払って、修行の成果を蓄積していけばよい。我々はこのような方法で、禅定の修行をするのです》(「森林里的一棵樹」より)。

 

#24-150614

《もしあなたが感官に執着するなら、それは魚が針にかかったようなものである。漁師がやってきた時、あなたは死に物狂いで抵抗する事はできても、逃げ出すことはできない。事実は、あなたは針にかかった魚のようではなくて、蛙のようである。魚は針を口先に引っ掛けるだけだけれども、蛙は針全体を、腹の中まで飲み込む》

(「森林里的一棵樹」より)

 

一たび感官に執着してしまうと、後になってそれを振り払うのは大変な努力が必要だという事が、修行をしていると分かります。腹まで飲み込んでしまった針は、吐き出すのも命がけになってしまいます。そんな苦労をするくらいなら、君子危うきに近寄らず、針の上のおいしい所をちょっとだけ舐めて、終わりにしましょう(笑)。

               (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)