Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~25,26>「高速道路」&「蛙」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 34とP35に、こんな事が書いてあります。

#25-150615

「高速道路」

間違った認識によって我々は、自分の事を“行”だと思っています。我々は楽しいか、又は楽しくない(存在だ)というです。このような理解は、ものごとの本来的な真実を完全に理解していない事から生まれます。いわゆる真理とは;我々は、あらゆるものごとに対して、我々の欲望に強制的に従わせる事はできない、ということです。なぜなら、それらは自然の法則に従っているからです。

ここに一つの簡単な例があります。もしあなたが高速道路の真ん中に座っていて、非常に多くの自動車とトラックがあなたに向かって走ってくる時、あなたは怒りに燃えて車に向かって「ここに来るな!ここを走るな!」と叫んでも意味がない。ここは高速道路であり、あなたがそのように叫んでも無駄なのだから。ではあなたはどのようにすればよいのでしょうか?あなたは高速道路を下りなければなりません!高速道路は車の走る道であって、あなたが車にそこを走るなと言えば、あなたが苦しむ。

“行”も同じ事で、たとえば、我々はそれらが我々を混乱させると言います。我々が瞑想している時に何かの音を聞くと「ああ、音がうるさい」と言います。もし我々が、音が我々に干渉したと思うなら、我々はその事によって苦痛を感じます。もし我々がさらに深く観察するなら、我々は理解します。本当は我々が出かけて行って、音に干渉している事を。音は本来、ただ音であるだけのです。もしこのように理解する事ができたなら、音は音のままに、我々は音に干渉しません!我々は、音は音自身、我々とは無関係であると理解します。この事を<真理を知る>といい、この二つの辺を確実に見通したならば、我々は静謐を得る事ができます。もし我々が一辺だけを見るならば、苦しみです!一たび二つの辺を見通せる事ができれば、これが中道です。これこそが心の正確な修行であって、これがいわゆる“我々自身の知見を修正する”事なのです。

同様の道理で、一切の“行”の本質は無常であり、生滅するものであるのに、なぜか我々は、それらがそうある事を望まず、それらを背負い、それらに貪着し、それらが真実であってほしいと渇望する。我々は、真実でない事がらの中で真実を発見したいと願っている!いつの時でも、もし人がこのような考え方を持ち、かつ“行”を自分自身だと執着するなら、耐えられないほどの苦痛をもたらす事になります。ゴータマ仏陀は、我々にこの道理をじっくりと考えるように、促しているのです。(「森林里的一棵樹」より)

#26-150615

「蛙」

修行をおろそかにし無視すると、僧院に来て仏法を聞こうとしなくなる。そしてあなたの心は、ますます泥沼にはまり込む。それはまるで、深い洞に飛び込んだ蛙のよう。一たび人が針をつけた吊竿を持って近づいてきたなら、蛙の命は風前の灯・・・。彼は選択の余地なく、坐して死を待つしかない。気を付けて!穴に落ちないように気を付けて!穴に落ちたなら、人が針をつけた吊竿を持ってあなたを釣りに来るでしょう。

家にいると、あなたは子供や孫や財産の事で惑乱しますが、これは先ほどの蛙よりなおまずい。あなたはどこへ行けばそれらから離れる事ができるかを知らない。一たび、老いや病、死と向かい合う時、あなたはいったいどうしたらいいと言うのでしょうか?これこそが、あなたを釣りに来た吊竿についた針であり、あなたはいったいどこへ向かって逃げればいいというのでしょうか?

(「森林里的一棵樹」より)

 

 “行”これも大変に難しいダンマであり、私は長い間、意味が分かりませんでした。

以前、タイの森林寺院で「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)という本を見た事があります。最近、それを思い出して、アマゾンで買って、読んでみました。そこに “行” に関する描写があったのですが、目からうろこと言うか、息がとまるほど・・・「ああ、そういう事だったのか」

般若心経に色受想行識と書いてあるのを何度読もうが、それだけでは悟れません。瞑想してあなたの身体に生じる “行” を直接 “観る” 事です。悟りは、如実知見によってもたらされるのです。

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)