Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~35>「野良犬」

#35-150622

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 43にこんな事が書いてあります。

 

《ある時、ゴータマ仏陀と彼の弟子が留まっている森の中で、一匹の野良犬が走り出てきたのを見ました。彼はしばらく立っていたかと思えば、草むらに駆け込み、次に走り出てきて、その次には木の洞に突進していき、間もなく飛び出てきました。次には穴に入り込み、また走り出てきました。一分ほど立っていると、また走り始めます。次には横になり、また飛び跳ねたりしていましたが、どうやらこの野良犬は疥癬を病んでいるようです。彼が立っていると、疥癬が彼の皮膚に侵入し、痛いので必死に走ります。走ると不快になって、立ち止まります。立っていても不快で、横になりますが、次には飛び上がり、草むらや木の洞に突進し、静かにする事ができません。

ゴータマ仏陀は言いました“比丘たちよ、今日の午後、一匹の野良犬をみましたか?立っていても苦しく、走っても苦しい。座っても苦しく、横になっても苦しい;彼は立つから不快になるのだと思うものの、座っても落ち着かず、走っても苦しく、横になってもしっくりしない。彼は木、茂み、洞穴が悪いのだと思う。しかし、実際には、それらは彼の苦しみとは無関係であり、彼の体の疥癬が問題なのです”

我々は、あの野良犬と同じです。我々の不満足は、間違った知見からきています。というのも、我々は、自ら感官の制御をおこなわないでおいて、外界が我々に苦痛をもたらすのだと責め立てます。我々はタイに住もうが、アメリカに住もうが、イギリスに住もうが、どこにも満足しません。どうしてか?我々の知見がいまだ不正確だ、という事に尽きます!ですから、我々はどこへ行こうとも、ただ疥癬が治って後にのみ、リラックスして楽しく感じる事が出来るのです。こういう事で我々は、間違った知見を取り除いて初めて、どこへ行こうとも、楽しく満足する事ができるようになります》(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:感官の制御。若いころ、初期仏典を読んでいて、一番気になったのがこの言葉でした。ただ、師につかず独学でしたので、本当の意味を理解するのに大変時間がかかりました。その上、実践できるようになるまで、またまた、気の遠くなる程の時間がかかりました。最近、少しだけ分かるようになりました。他人の話す言葉を聞いている時、マインドフルネスになって、他人の言葉に対して必要以上の意味づけをしない、自分の妄想で脚色しない、相手の言葉に悪意があると感じた時は、感官をひっこめて最初から接触しない・・・なかなか難しいのですが、己の感官を制御できた時は楽しい。失敗して、相手の言葉の刃に傷ついた時は、疥癬病みの野良犬のように、二、三日気分が悪い(笑)。

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)