Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~47,48,49>「薬と果物」&「孤児」&「商人」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 52,53にこんな事が書いてあります(三話)。

#47-150627

「薬と果物」

修行しないからといって、その人と喧嘩しない。彼らの間違いを批判しない。ただ常日頃、戒め導けばよい。彼らの霊性的な条件が整った時、自然に法を求めにやってくる。それはまるで薬売りのようなもので、我々は我々の薬を宣伝しておけば、頭痛もちの人、胃の痛い人は、自然に薬を求めてやってくる。我々の薬を欲しない人、彼らは彼らの勝手にさせておきなさい。彼らは、青くて渋い果実のようであり、我々は彼らに成熟して甘くなるよう迫る事はできない――自然のままに!自分で成長し、自分で甘くなり、自分で成熟すればよろしい。我々がこのように考える事ができれば、心は釈然とする。故に、我々はいかなる人をも無理強いする事無く、ただ、我々の薬を宣伝しておけばよい。誰かが病気をしたときには、自然と薬を買いに来るものなのです。

(「森林里的一棵樹」より)

 

#47-150627

「孤児」

(人生の)最後に、人々は神経質になります。どうしてか?彼らは無知だからです!彼らはただ自分の感情に従うだけで、自分の心を世話する方法を知らない。心を誰も世話しないならば、(心は)父母のいない子供のようになる。孤児は拠り所がなく、拠り所のない子供は非常に危険なものなのです。

同様に、この心に注意を払うことなく、正見でもって訓練したり、品格を育成する事がなければ、困難が待ち受けているのです。(「森林里的一棵樹」より)

 

#49-150627

「商人」

あなたは何事かをなすとき、心はその事をはっきりと自覚していて、かつ覚醒的に行う必要があります。あなたがはっきりと自覚している時、自分に対して(必要以上に)忍耐したり、無理強いする事はなくなります。あなたに障害と重荷があるとしたら、あなたはこの事を見極めていないからです。静謐とは今している事に全身全霊を投入することであって、何かし残した仕事があると、あなたには不満足な気持ちが残ってしまい、あなたはどこへ行こうとも、その気持ちがあなたに絡みつき、いつも心から心配事が離れないでしょう。あなたは何か一つの事を完成させようとしても、うまくいかないのです。

よく私の所へやってくる、商人を例にとって言いましょう。彼らはいいます「私は私の債務が綺麗に片付き、財産の整理がついたら、出家します」と。口ではこのように言うけれども、彼らはいつになったら債務を返済し、(出家の)準備をしはじめるのでしょうか?永遠にその時は来ないでしょう!彼らはもう一つ別の債務で今ある債務を返し、一つ返せばまた一つ借りるのです。これらの商人はこのように考えます。彼がすべての債務を返し終わったら、とても嬉しいけれど、債務を返し終わるのはまだまだはるかかなたなのだと。これこそが、世間が我々を愚弄する方法なのです。我々はこうして同じところをグルグルと回り続け、永遠に、己の哀れさに気が付くことがないのです。(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:何かと理由を見つけて、自分は決して変わろうとしない人がいます。外から見ていると、“ああ、同じところをグルグル回っているな”と思いますが、本人は気が付かないか、気が付いていても、最初の一歩を踏み出すのが怖くてできない。禅宗では<百尺の竿頭を飛び込め>といいますが、言い訳しないで、実践する。仏法はこれしかないのです(邪教の盲目的、強制的実践とは異なります。とは言っても、邪教とは何か?の判断が難しいのですが・・・^^;)。

                      (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)