Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~55,56>「石」&「道」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 58,59にこんな事が書いてあります(二話)。

#55-150630

「石」

放下(手放す)事と“空っぽの心で修行する事”という指導は、人に理解されにくい、また、自己の観念と衝突する教えでもあります。我々が世俗の言葉でこの二種類の教えを理解しようとする時、我々は混乱してしまい、好き放題に勝手にやっていいのだ、と誤解する事があります。しかし、これはこのように解釈するべきではありません。それの本当の含意は、以下のようなものです:もし我々が一つの重たい石を背負っているとして、しばらくすると、石の重さを感じ始めるのですが、しかし、どのようにそれを手放してよいか分からず、その為にずっと長い時間、この重すぎる負担を背負い続けているのです。

もし誰かが我々に、石を放り出しなさいと言っても、我々は「我々はこの石を投げ捨てたなら、何もなくなってしまう!」と叫ぶのです。たとえ誰かが我々に、石を手放した後、あらゆる利益を得る事ができると教えてくれても、我々はなおも石を放り出すのを拒絶する。というのも、我々は何物をも持たない、無所有になるのが怖いから。故に、我々は引き続きこの重い石を背負い続け、あまりの重さに耐えきれなくなり、かつ我々も虚弱で力もなくなってしまった時、仕方なくこれを手放すのです。

それを手放した後、我々は突然手放す事の利益を体験し、すぐさま快適で身軽な感じがし、かつ、石を背負うという事が、どれほど重い負担である事かと理解するのです!我々はこの石を手放す以前は、手放す事の利益を理解できないのです。

しばらくして、我々は再度この重い負担を背負い込む事があるかもしれないけれども、しかし、今我々は、このようにすれば、その後にどのような結果になるかを知っている為、前よりもさらに簡単にそれを手放す事ができるようになります。“重い荷を担ぐ事に利益はなく、手放せば快適さと身軽さがもたらされる”このような理解は、自分自身を理解する、よい例なのです。

我々の負担、我々が依存し、頼むとする自我意識は、一つの重い石なのです。もし我々が自我を手放す事を考える時、それが無くなった後、何物も残らないと恐れおののくのだけれども、しかし、我々がそれを手放した時、我々は自我に執着しない軽安と自在を自覚する。(「森林里的一棵樹」より)

#56-150630

「道」

この身はどこにいようとも、自然にかつ厳格な方式で、自分自身を知らなければなりません。疑惑が生起したなら、それらを自然に来させ、去らせます。これは大変に簡単な事です――ただ執着しなければよいのです。たとえばあなたが一筋の道に従って歩いているとして、時には障害物に会う事があります。あなたが障害物にぶつかった時、すでに消失した障害物を心にかける事なく、また、未来に出会うであろう障害を憂慮する必要もなく、ただ<今>をつかんでいればよい。道の長さや短さまたは目的地を心配する必要もない、一切合切が変化の中にあるから。

どのような事に出会おうとも、執着することなく、そのようにあれば、いつか、心はバランスを保てるようになるでしょう。そうなれば、目を閉じて座禅しようが、にぎやかな都会を歩こうが、心はいつも静かで落ち着いていられるのです。(「森林里的一棵樹」より)

                   (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

ブログ主:手放す――これが難しい。物事に対して、(解決しようとせず卑怯な思いで)逃げているのか手放しているのか、わからなくなる時があります。(嫌いな)相手に平身低頭するより、ぶつかっていって玉砕した方がよかったかな、なんて思う事もあります。玉砕は、怒りのように見えて、実は手放している、という事があります。逃げたのか手放したのか、第三の者の目にどのように映ろうとも、自分が分かっていればいいのでしょうけれど。