タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 60,61にこんな事が書いてあります(四話)。
#57-150701
「苗木」
座禅・瞑想している時、あなた方はずっと正念を保たなければなりません。まるで、苗木を植える時のように。あなたが一本の苗木を植えた時、三日後、それを引き抜いて別の場所に植え替え、三日後にまた引き抜いて別の場所に植え替えるならば、最後には、それは全く成長しないまま、実も結ばず死ぬ事になます。
座禅・瞑想も同じ事で、七日間だけ座ってお終にして、後の七か月は気ままにあなたの心を“汚染”しておいて、その後で、寺に来て沈黙の行やら一人で居る独居の行やらの、宿泊瞑想会に参加するならば、上述のような苗木の植え方と同じ事になる。このようであれば、あなたの座禅・瞑想の努力は成長するべくもなく、最後には、なんらの真実の果実を生み出す事無く、死んでいくのである。(「森林里的一棵樹」より)
#58-150701
「静止している流水」
あなたはかつて、流動する水を見た事がありますか?あなたかつて静止している水を見た事がありますか?もしあなたの心が平静であるならば、静止している流水のようになります。あなたは静止している流水を見た事がありますか?ほら、あなたただ流動する水か、静止した水しかみた事がない、そうでしょう?あなたの心が平静な時、智慧は啓かれます。あなたの心は流動する水のようでいて、しかし、静止しているのです。心はほとんど静止していながら、しかし、依然として流動しています。故に、私はそれを“静止している流水”と呼ぶのです。智慧はここから生起します。(「森林里的一棵樹」より)
#59-150701
「螺子釘」
もしあなたが座禅・瞑想によって、はっきりと真理を見たなら、苦痛は、まるで一本の螺子釘のように“回って緩む”でしょう。あなたが一本の螺子釘を回し緩ませる時、それは飛び出してきて、ねじ込む時よりも緊張しない。心も、放下と捨て去る事によって緩まれば、善と悪、富と財産、毀誉褒貶、苦と楽によってきつく縛り付けられる事がありません。もし我々がこの真理を知らないでいるならば、あなたは螺子釘をひたすら押し込もうとし続け、あなたは押し込み続けることによって、やがて、あなた自身が破壊される時がきて、どのような出来事もあなたに苦痛をもたらす事でしょう。あなたがすべてを“緩ませ”た時、あなたは自由になり、かつ静謐で穏やかに安らぐのです。(「森林里的一棵樹」より)
#60-150701
「鋭利な刃物」
我々が、心が停止したと言う時、感覚がすでに停止し、あちこち出鱈目に走り回らないのと同じである、という事を意味します。ちょうど我々が鋭利な刃物を持っていたとして、我々が気持ちの赴くままに石やレンガ、ガラスなどの類を切ろうとしたならば、刃物は瞬く間に毀れてしまう。我々は役に立つものだけを切る必要があります。
心も同じです。もし我々が心を放任して、あちこち勝手に走り回らせ、役に立たない、または無価値な妄念と感情に追随するならば、心は休息を得られないという理由で、非常に早く疲労困憊します。もし心に力がなければ、智慧は生じる事ができません。と言うのも、力のない心は、定力のない心と同じだからです。(「森林里的一棵樹」より)
(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)
ブログ主:<心を放任して、あちこち勝手に走り回らせ、役に立たない、または無価値な妄念と感情に追随する>――修行を始める前の若い頃、この事が理解できませんでした。やりたい事を精いっぱいやり、泣きたい時に泣き、怒りたい時に怒るというのは正直な生き方であって、非難されるのは心外だと思っていました。今は分かります。他人からの毀誉褒貶でいちいち怒り泣いていたら、身が持ちません。心と身体は連動していますから、心を不用意に漂わせた結果、傷ついて泣き騒げば、身体の調子も悪くなります。他人と財産比べをしたり、能力・美醜を比べて泣き叫べば、親から貰った最低限の元手~身体まで台無しにしてしまいます。桑原桑原、君子危うきに近寄らず(笑)。