Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~014、015>問答(三)問3-3、問3-4(全文)

#014-150709

問3-3 どのような状況になったなら、我々は、修行者が近行定を経験している、又は安止定を経験していると言えますか?

答3-3 もし定の中で、有分の状態が幾度となく発生するならば、我々は、それは近行定だと言うでしょう。ただし、その時の修行の対象は必ず安般念でなくてはなりません。このように、修行者がただ安般念似相のみを対象とし、かつ絶え間なく完全な専注を保持しえていて、相当の長い時間それを維持する事ができるならば、我々はそれを安止定だといいます。

修行者は如何にして、自分の心が有分に落ちていないかどうかを、知ることができるのでしょうか?彼は、自分が安般念似相に対して、しばしば知覚を失うかどうかに注意を向ける事。それが、有分であるかどうかが、分かる方法です。ある時は、修行者の心は、非常に短時間の刹那、安般念似相以外の対象に向かいたいと思う事があります。しかし、このような状況は安止定の時には発生しません。安止定では、完全な専注だけが、不断に相続して続きます。(完)。

#015-150709

問3-4 四つ禅の内の各一禅毎に、みな近行定と安止定がありますか?それらはどのような特徴がありますか?

答3-4 安般念のジャーナを例にとると、このジャーナは、縁として安般念似相をその対象とみなしていて、四つの近行定、四つの安止定があります。一つの禅毎に近行定と安止定があります。二者ともにただ安般念似相をのみ、対象にしています。ゆえに、彼らの間では対象は同じで、差別はないのですが、この二者の定力の強度は違います。

初禅近行定の段階では5個の禅支があり、この点においては、第二禅と第三禅の近行定と同じです。しかし、第四禅の近行定の中には喜(pīti)と楽(sukha)がなく、ただ尋(vitakka)と伺(vicāra)、捨(upekkhā)と一境性(ekaggatā)しかありません。もちろん、それらは同じく安般念似相を対象にしているのですが、第二禅の近行定の禅支は初禅近行定の禅支よりも更に力があります:第三禅近行定の禅支は、第二禅近行定の禅支よりさらに力があります:第四禅近行定の禅支は第三禅近行定の禅支よりさらに力があります。

初禅近行定の禅支は身体の苦痛(kāyaka-dukkha-vedanā)を鎮静させます;第二禅近行定の禅支は心理的な苦痛(domanassa-vedanā)を鎮静させます;第三禅近行定の禅支は身体の快楽(kāyika-vedanā)を鎮静・調伏します;第四禅近行定の禅支は心理的な歓喜(somanassa-vedanā)を鎮静・調伏します。このことから、我々はこれらの近行定の間の違い、特に第四禅の近行定(とはどういうものか)を知ることができます。

それぞれの禅の安止定間の違いについては、我々は同じく、禅支を観察する事によってそれらを区分します。初禅には5個の禅支:尋、伺、喜、楽と一境性があります;第二禅には3個の禅支:喜、楽と一境性があります;第三禅には2個の禅支:楽と一境性があります。第四禅には2個の禅支があります:捨と一境性。禅支を観察する事によって、我々は「これは初禅」「これは第二禅」「これは第三禅」「これは第四禅」と識別する事が出来ます。しかも、定力は、一禅一禅毎に深まり、第四禅の定力はその他の三つの禅より更に高くて深いです。それはどれくらい高く深いものか?あなたは自ら体験してみるべきです。多くの修行者は、第四禅が最も精妙で、最も静謐だと報告しています。(完)。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めて御来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メッソドに興味のある方のご参考になれば幸いです(一日又は隔日に一篇or二篇公開。日本及び海外でのリトリート中は休筆します)。