Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー問答集~016>問答(三)問3-5(全文)

#016-150710

問3-5 どのような状況の下、修行者は安止定から落ちてしまいますか?または近行定まで下がりますか?どのような状況の下、近行定にいる修行者は、安止定に入りますか?

 答3-5 もし修行者が自己の禅修を重視しないで、似相以外の別の対象を重視するならば、多くの障碍(nīvaraṇa)が生じます。感官に依存する欲楽から生じる多くの妄想が生まれ、怒り恨みによる多くの妄想も生まれますが、これらは不如理作意(ayoniso-manasikāra)であって、これらの異なる各種の対象は、定力を弱め削減してしまいます。善法と不善法は一貫して対立しているもので、善法が強く力がある時、不善法は遠離します:これと反対に、不如理作意によって不善法をなし、それが強く力のある時、善法は遠離します。善法と不善法は同時に一つの心識刹那または心路過程の中に存在する事はできません。

ここにおいて、私は如理作意(yoniso-manasikāra明智の気づき)と不如理作意(ayoniso-manasikāra不明智の気づき)について説明します。止禅で、修行者が安般念を修行している時、もし彼が自然の呼吸に専注するなら、彼の作意は如理作意です。取相または似相が生じた時、修行者が取相または似相に専注するのであれば、彼の作意は同じく如理作意です。観禅(vipassanā)の時、もし修行者が「これは色」「これは名」「これは因」「これは果」「これは無常」「これは苦」「これは無我」と見るならば、彼の作意は如理作意です。

しかしながら、もし彼が「これは男性、女性、子供、娘、父親、母親、天神、梵天、動物等」と(いう概念でものごとを~訳者)見たとしたら、彼の作意は不如理作意です。通常、我々は「如理作意によって善法を生じせしめ、不如理作意によって不善法を生じせしめます。瞑想修行の時、もし不如理作意が生じたなら、五蓋や煩悩もまた生起します。それらは不善法であり、不善法は定力を削減するか、または定力の下落や消失を起こす」と言うのです。

もし再三再四、如理作意によって修行の対象を観察するなら、善法が成長しますが、ジャーナ善法もまた、これらの善法の中に含まれるものです。故に、もしあなたが禅相、たとえば安般念似相に、不断に注意を向けるならば、これは如理作意です。もし如理作意を完全な強度にまで到達するよう育成する事が出来たならば、あなたは近行定の段階から安止定の段階に入るでしょう。(完)。

 

(翻訳文責Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は二篇公開。日本及び海外でリトリート中は休筆します)。